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スレッド

└◇495:
スコープの「のだ」についての若干の学説紹介 [きんちょ] 01/06/07(Thu) 22:01

 ├◇496:Re: 若干の学説紹介につての私見 Oyanagi 01/06/07(Thu)
 │└◇525:ありがとうございます きんちょ 01/06/09(Sat)
 └◇504:Re: 小さなコメント Sakananome 01/06/08(Fri)
  ├◇506:ちゃんと こたえてからに してください きんちょ 01/06/08(Fri)
  │└◇509:Re: ちゃんと こたえてからに してください Sakananome 01/06/08(Fri)
  │ ├◇512:もうすこし確認させてください きんちょ 01/06/08(Fri)
  │ └◇513:●これでいいんですよね!確認 01/06/08(Fri)
  │  └◇593:Re: ●これでいいんですよね!確認 Sakananome 01/06/20(Wed)
  │   ├◇601:活用のちがいは、意味や機能の ちがいではない きんちょ 01/06/21(Thu)
  │   │└◇614:Re: 活用のちがいは、意味や機能の ちがいではない Sakananome 01/06/23(Sat)
  │   │ └◇616:共通要素を抽出することからの「出発」 きんちょ 01/06/23(Sat)
  │   │  └◇618:学校文法での あつかいについて ひとこと きんちょ 01/06/23(Sat)
  │   │   └◇619:辞書でも「助動詞」 きんちょ 01/06/23(Sat)
  │   └◇622:コメントありがとうございます。 01/06/24(Sun)
  │    └◇624:筑波の『S.F.J.』の説明について きんちょ 01/06/24(Sun)
  │     └◇632:あること−ないこと 01/06/25(Mon)
  │      └◇633:Re: あること−ないこと きんちょ 01/06/25(Mon) ←last
  └◇524:引用の事実関係について きんちょ 01/06/09(Sat)


495● スコープの「のだ」についての若干の学説紹介[ きんちょ ] 01/06/07(Thu) 22:01
 Oyanagiさんと やりとりをしている(471)「形態面をくみこんだモデル」に はじまる議論をこちらに ひっこししたいと おもいます。まず はじめに、いままでの議論の背景となる学者たちの研究の内容を簡単に紹介しておきます。




 「スコープ」に関する議論(おぼえがき)




 「のだ」「んです」に関して、「スコープの「のだ」」を「ムードの「のだ」」と区別する説を紹介しました。これに関連して、簡単に、現在まで どのようなことが議論されてきているのか、メモしておきます。


 このような掲示板で、専門家の いうことをいちいち そのまま引用することは けっして のぞましくないと おもいますが、あくまで議論をよんでくださる かたの参考のためということで、研究の ながれを整理するのが意図です。また、わたし自身も、今回の議論がなければ、ここに かくことは しらずにいたでしょう。そういう意味では、掲示板から えたことを掲示板に すこしでも還元したいという意図も あります。

 なるべく わたしの意見は まじえず、紹介に つとめるつもりですが、無理に要約するので、どうしても わたしの理解が介在するところが でてきてしまうかもしれません。そこで、そこからくる誤解をさけるために、末尾に わたしの観点が わかるような感想をつけくわえました。



● 久野ワ 『新日本文法研究』1983

 以下のような記述があるそうです。(いまのところ、『モダリティの文法』益岡 からの マゴびきです。すみません)

 日本語の否定辞「ナイ」と疑問助詞「カ」のスコープは
 極めて狭く、通常、その直前の動詞、形容詞、「Xダ/
 デス」に限られる (P.140)

この原則により、

 (5) 君はパリで時計を買いましたか。
 (6) *君はこの時計をパリで買いましたか。
 (7) 僕は終戦の年にはまだ生まれていなかった。
 (8)??僕は終戦の年には生まれなかった。

を説明し、(6)が非文なのは、焦点であるべき「パリで」が疑問の「カ」のスコープに おさまらないからで、(8)が非文なのは、焦点であるべき「終戦の年に」が否定の「ナイ」のスコープに おさまらないのに対して、(5)(7)の焦点は「買いました」「生まれている」だから、それぞれ「カ」「ナイ」のスコープに おさまるのだと主張したそうです。

 そこで、
 (9) 君はこの時計をパリで買ったのですか。
(10) 僕は終戦の年に生まれたのではない。
が文法的なのは どうしてかという はなしになり、「の」が付加されることで、これらの表現全体が「Xダ/デス」のXの部分に くみこまれ、スコープのなかに はいってくるからだと いうこうに なるようです。


● 小金丸 春美(野田 春美と同一人物)
 「ムードの「のだ」とスコープの「のだ」」
         1990『日本語学』9-3

 この論文は、1988年10月の日本語教育学会大会での口頭発表をもとにしているそうです。

 小金丸は、上記、久野の例文をひきながら、
(11) 君は、終戦の年に生まれたのか。
    いや、終戦の年に生まれたのではない。
(12)??いや、終戦の年には、生まれなかった。

について、(11)の応答の「生まれたのではない」のなかにある「ノ」は必須であるとし、このような「ノ」をふくむ「のだ」をスコープの「のだ」と なづけました。

 このスコープの「のだ」が あらわれる例文として、

  「琴の糸、何本ですか」
  さと子が答える前に、動転してしまったのはたみだった。
  「あ、何本だったかしら。やだ、何本だっただろ」
  「馬鹿、お前にきいてんじゃない」
  仙吉がどなり、さと子が、
  「十三本です」と答えた。 (向田邦子『あ・うん』)

という例をあげ、このなかに でてくる
 「お前にきいてんじゃない」は、
 「お前にきいていない」
とは ならないことをスコープのちがいにより説明します。後者は「きいている」ことを否定し、前者は「お前に」を否定するという ちがいが みられます。同様に、
 「私に聞いてるんですか?」
という疑問文や、
 「おまえに聞いてるんだ」
という肯定文でも、このようなスコープの ちがいが つかわれていると、主張するのです。

 さらに、「あ、買ったんじゃないよ、借りたんだ」というような文で「のだ」が必須であるのも、「買った」「借りた」という述語が焦点なのではなく、そのなかにある「買う」「借りる」という語義の実質部分だけを焦点に とりいれるので、このように焦点が述語より ちいさくなる ばあであっても「のだ」が必須だと主張します。

 このようなフォーカスの「のだ」が、ムードの「のだ」と別ものである論拠として、

 「お前に聞いてるんじゃないんだ」

という文が可能であることが あげられています。この文では、「聞いているんじゃ」の「んじゃ」に ふくまれる「のだ」は、スコープの「のだ」であり、文末の「のだ」はムード(状況との関連づけ)の「のだ」だと分析するわけです。このように、2種類の「のだ」は別々に あらわれることもあれば、ひとつの「のだ」が両方をかねることもある(たとえば、「さと子に聞いてるんだ」の「んだ」)、というのが、小金丸の主張です。


● 益岡 隆志 『モダリティの文法』1991

 益岡は、久野の「ナイ」と「カ」のスコープに関する説そのものをみとめていません。

(13) − 君は今日車で来ましたか。
   −×はい、来ました。

(14) − あなたは一生懸命働きましたか。
   − はい、働きました。

のように、疑問文には もともと ちがう種類のものがあり、「あなたは一生懸命働きましたか」のような「存在判断型」の文は、「事態が存在するか否かの判断にかかわる」もので、「君は今日車で来ましたか」のような「叙述様式判断型」の文は、「事態の叙述様式が適切であるか否かの判断にかかわるもの」だと します。
 そして、こたえかたの ちがいは、この2つの性質の ちがいによるもので、どちらの ばあいにも久野の説は なりたたず、「カ」のスコープは述語ひとつだけに限定はされないと主張するのです。

 益岡の主張によれば、「の(だ/です)」の有無と「カ」のスコープのひろさとは直接の関係はないということに なり、
久野や小金丸が観察した現象は、

  「のだ」が「存在判断型」の文を「叙述様式
  判断型」に かえる

ものと解釈できると おもいます。
 しかし、動詞文のなかには、「のだ」がなくても、「叙述様式判断文」に はいるものも あります。
 実は、久野(1983)も それと おなじことを みとめていて、それを「マルチプル・チョイス式」と よんでいるそうです。たとえば、

(15) 君は今日車で来ましたか。

と きけば、焦点は「車で」であり、「歩いて/自転車で/バスで/車で」といった具体的な選択肢が想定される疑問文や、

(16) 君は東京で生まれましたか、大阪で生まれましたか。

というような選択疑問文では、「カ」のスコープが述語だけに限定されないということを久野も例外として みとめているということです。
 久野においては例外であった これらの文を、スコープに関する久野の説をみとめない益岡は、例外としてではなく、「のだ」を必要としない「叙述様式判断文」だと みています。

 結局、益岡は、「のだ」がある疑問文と「のだ」がない疑問文をくらべて、「叙述様式判断の課題設定」を経て提示する疑問文かどうかという ちがいだと説明しました。つまり、もともと「叙述様式判断」の文に なっていなければ、小金丸が観察したような ちがいが観察できるでしょうが、もともと「叙述様式判断」の文に なっていれば、「のだ」の有無による ちがいは、「課題設定」をするかどうかという点に もとめられるわけで、それは「説明の「のだ」」と構造としては おなじだという結論に なるようです。

−−−−

● 感想

 さて、最後の益岡の説は、一冊の本になっているので、ここで簡単に要約することは困難です。あえていえば、Oyanagiさんの説明は、だいたい益岡の説に そったものだと いえそうなので、それを参照してもらったほうが いいかもしれません。ただ、ここで のこされた問題として、

・益岡の説をみとめるとしても、「叙述様式判断型」という文が形態面からは定義されていないので、日本語教育に どこまで応用できるかという問題が ある。

・おなじく、益岡の説については、「んです」ぬきの「叙述様式判断型」の疑問文(マルチプル・チョイス式の文ということになると おもわれる)と、それに「んです」が つかわれたときの ちがいが「課題設定」をへているかどうかの ちがいだというが、結局は おなじことに なるのではないかという疑問が のこる

という印象が いなめません。

 むしろ、すでに文脈や状況から「課題設定」されているときに、その「課題」が疑問文じたいのなかに とりこまれてしまっているのが、マルチプル・チョイス式の文に「んです」がついた疑問文だというふうに いえないでしょうか。

 逆に、教育上は、形態から きめて いける部分は、きめていったほうが わかりやすい部分があり、そういう意味では、小金丸の指摘は「こういう現象がある」というふうに うまく教育に いかせないかと おもいます。その目的のために、スコープの「のだ」をたてることにも意義があるように おもいました。

akizuki.pr.co.kr/

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496● Re: 若干の学説紹介につての私見[ Oyanagi ] 01/06/07(Thu) 23:58
きんちょさんのまとめ、大変参考になりました。

> さて、最後の益岡の説は、一冊の本になっているので、ここで簡単に要約することは困難です。あえていえば、Oyanagiさんの説明は、だいたい益岡の説に そったものだと いえそうなので、それを参照してもらったほうが いいかもしれません。

実は、自分のHPのプロフィールにある「私を変えた一冊」というところにもあげましたが、益岡氏の『モダリティの文法』には多大な影響を受けています。例の「のだ」の考察も(最後に参考文献として挙げてありますが)あれがベースになっています。
特に『叙述様式判断型』という概念は”強烈”でしたね。あれがベースになって、談話の視点で組み直したのが私の「のだ」の考察です。

益岡氏の久野説への批判は説得力があると思います。野田氏が提唱する「スコープ」という概念は非常に分かりやすい概念だと思いますし、特に複文の場合(「〜から〜のだ」「〜ば〜のだ」など)にはその威力が発揮されます。スコープの概念は形式名詞の「の」の働きを構文レベルで捉えたもので、その機能が『叙述様式判断』というモダリティのために使われるということで、両者は密接に繋がっているのだと思います。
(ちなみに私がここで『繋がっていると思う』ではなくて『のだと思う』というのもそのように事態を確定したいというモダリティが働いたためだと思います)やはり基本的は『叙述様式判断』のようなモダリティに収斂されるような気がします。

なぜそう思うかというと、日本人の談話では常に共有されている情報をお互いに意識しながら、”かつ、それが言語形式として表われる”のが特徴だというのが持論です。そうすると、何を、どの部分を確認しあうのかとうことをマークできないとコミュニケーションがうまく運ばないことになります。マルチプルチョイスにしろ、スコープにしろ、焦点にしろそのようなものを活用することで目的を達していることを考えると、『叙述様式判断』というモダリティということを考えることがより重要ではないかということです。

> ・益岡の説をみとめるとしても、「叙述様式判断型」という文が形態面からは定義されていないので、日本語教育に どこまで応用できるかという問題が ある。

とうことで、私は個人的は『叙述様式判断』というものは日本語の特徴としてもっと注目されていいのではと思っています。日本語教育にどこまで応用できるか? そこが重要ですね。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
ちょっと話はそれますが、アルクの掲示板できんちょさんとやりとりした「〜へと(向かう)」に表われる「と」の解釈も実は大きな枠組みではつながりがあると考えています。あの時は「と」が引用かどうかということがちょっと議論になりましたが、それまでは考えてもみなかったことですが、なぜ日本語では引用に「と」が使われるのか?ということです。
これは『基礎日本語辞典』の受け売りですが、「AとB」という「と」の使い方と通じるものがあるというのは非常に示唆的です。「Aと思う」というとに、日本人は『自分の考え』と『A』が同じであるという認識の仕方をするということは、ある事態をどのように叙述するのかという先の『叙述様式判断』のモダリティに通じているのでは、というのが私の考えです。
う〜ん、やっぱりモダリティは面白いです。

www3.tky.3web.ne.jp/~oyanagi/index.html

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525● ありがとうございます[ きんちょ ] 01/06/09(Sat) 14:54
> きんちょさんのまとめ、大変参考になりました。

 いえいえ。Oyanagiさんは、最初からご存じのことだったでしょう? 

 『日本語学』93年-10の田野村論文にも まとめられているし。


> 実は、自分のHPのプロフィールにある
> 「私を変えた一冊」というところにも
> あげましたが、益岡氏の『モダリティ
> の文法』には多大な影響を受けていま
> す。例の「のだ」の考察も(最後に参
> 考文献として挙げてありますが)あれ
> がベースになっています。

 Oyanagiさんの論考に関して「ウソの解説」をしたことにならなくて、よかったです。



> 特に『叙述様式判断型』という概念は
> ”強烈”でしたね。あれがベースに
> なって、談話の視点で組み直したのが
> 私の「のだ」の考察です。

わたしには、まだ うまく のみこめないんです。


> スコープの概念は形式名詞の「の」の
> 働きを構文レベルで捉えたもので、
> その機能が『叙述様式判断』という
> モダリティのために使われるという
> ことで、両者は密接に繋がっている
> のだと思います。

ここが、むずかしいところですね。批判しながらも、実は「つながっている」という……


> なぜそう思うかというと、日本人の
> 談話では常に共有されている情報を
> お互いに意識しながら、”かつ、そ
> れが言語形式として表われる”のが
> 特徴だというのが持論です。そうす
> ると、

ここは同感です。

> とうことで、私は個人的は『叙述
> 様式判断』というものは日本語の
> 特徴としてもっと注目されていい
> のではと思っています。日本語教
> 育にどこまで応用できるか? そ
> こが重要ですね。

 談話理解の教育ということに なるでしょうか。


「と」の件は、いまは勘弁してください。では。

akizuki.pr.co.kr/

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504● Re: 小さなコメント[ Sakananome ] 01/06/08(Fri) 16:58
きんちょさんの書き込みとても勉強になります。「のだ」のスコープについて正面から議論する気はないのですが、気になった小さいことをいくつか指摘したいと思います。

> ● 久野ワ 『新日本文法研究』1983
>  以下のような記述があるそうです。(いまのところ、『モダリティの文法』益岡 からの マゴびきです。すみません)
>  日本語の否定辞「ナイ」と疑問助詞「カ」のスコープは
>  極めて狭く、通常、その直前の動詞、形容詞、「Xダ/
>  デス」に限られる (P.140)
> この原則により、
>  (5) 君はパリで時計を買いましたか。
>  (6) *君はこの時計をパリで買いましたか。
>  (7) 僕は終戦の年にはまだ生まれていなかった。
>  (8)??僕は終戦の年には生まれなかった。
> を説明し、(6)が非文なのは、焦点であるべき「パリで」が疑問の「カ」のスコープに おさまらないからで、(8)が非文なのは、焦点であるべき「終戦の年に」が否定の「ナイ」のスコープに おさまらないのに対して、(5)(7)の焦点は「買いました」「生まれている」だから、それぞれ「カ」「ナイ」のスコープに おさまるのだと主張したそうです。
>

このように益岡には書かれているのですが、(6)はどう考えても非文ではないと思います。原本をあたってもこのような例文はのっていません。益岡は多分「君はパリでこの時計を買いましたか」が非文だと言いたいのだと思いますが、これも私には非文になりません。「君はパリではこの時計を買いましたか」は非文になりますが。

>
>  小金丸は、上記、久野の例文をひきながら、
> (11) 君は、終戦の年に生まれたのか。
>     いや、終戦の年に生まれたのではない。
> (12)??いや、終戦の年には、生まれなかった。
> について、(11)の応答の「生まれたのではない」のなかにある「ノ」は必須であるとし、このような「ノ」をふくむ「のだ」をスコープの「のだ」と なづけました。
(11)で「のか」と聞いているので、「の」が必要になるのでしょう。
「君は、終戦の年に 生まれたか」に対しては
「いや、終戦の年に、生まれなかった」
「いや、終戦の年には、うまれなかった」は一応可能だと思いますが。
>  このスコープの「のだ」が あらわれる例文として、
>   「琴の糸、何本ですか」
>   さと子が答える前に、動転してしまったのはたみだった。
>   「あ、何本だったかしら。やだ、何本だっただろ」
>   「馬鹿、お前にきいてんじゃない」
>   仙吉がどなり、さと子が、
>   「十三本です」と答えた。 (向田邦子『あ・うん』)
> という例をあげ、このなかに でてくる
>  「お前にきいてんじゃない」は、
>  「お前にきいていない」
> とは ならないことをスコープのちがいにより説明します。後者は「きいている」ことを否定し、前者は「お前に」を否定するという ちがいが みられます。
>

たしかに「お前にきいていない」は不自然ですが「お前にはきいていない」は十分に成立します。私の私見では否定文のスコープは主として「は」の問題で「ので」のスコープは(たぶん)存在しないのではと考えています。
ちなみに「のではない」とは言えても「のでない」は言えません。

>
>  さらに、「あ、買ったんじゃないよ、借りたんだ」というような文で「のだ」が必須であるのも、「買った」「借りた」という述語が焦点なのではなく、そのなかにある「買う」「借りる」という語義の実質部分だけを焦点に とりいれるので、このように焦点が述語より ちいさくなる ばあであっても「のだ」が必須だと主張します。
>

「のだ」は必須ではありません。「買いませんでした。借りました。」は一応成立するでしょう。

>  このようなフォーカスの「のだ」が、ムードの「のだ」と別ものである論拠として、
>  「お前に聞いてるんじゃないんだ」
> という文が可能であることが あげられています。この文では、「聞いているんじゃ」の「んじゃ」に ふくまれる「のだ」は、スコープの「のだ」であり、文末の「のだ」はムード(状況との関連づけ)の「のだ」だと分析するわけです。このように、2種類の「のだ」は別々に あらわれることもあれば、ひとつの「のだ」が両方をかねることもある(たとえば、「さと子に聞いてるんだ」の「んだ」)、というのが、小金丸の主張です。
>

「お前には聞いていません」も「のだ」文と同じ意味になると思います。

>
> ● 益岡 隆志 『モダリティの文法』1991
>
>  益岡は、久野の「ナイ」と「カ」のスコープに関する説そのものをみとめていません。
> (13) − 君は今日車で来ましたか。
>    −×はい、来ました。
>
> (14) − あなたは一生懸命働きましたか。
>    − はい、働きました。
> のように、疑問文には もともと ちがう種類のものがあり、「あなたは一生懸命働きましたか」のような「存在判断型」の文は、「事態が存在するか否かの判断にかかわる」もので、「君は今日車で来ましたか」のような「叙述様式判断型」の文は、「事態の叙述様式が適切であるか否かの判断にかかわるもの」だと します。
>  そして、こたえかたの ちがいは、この2つの性質の ちがいによるもので、どちらの ばあいにも久野の説は なりたたず、「カ」のスコープは述語ひとつだけに限定はされないと主張するのです。
>  益岡の主張によれば、「の(だ/です)」の有無と「カ」のスコープのひろさとは直接の関係はないということに なり、
> 久野や小金丸が観察した現象は、
>   「のだ」が「存在判断型」の文を「叙述様式
>   判断型」に かえる
> ものと解釈できると おもいます。
>  しかし、動詞文のなかには、「のだ」がなくても、「叙述様式判断文」に はいるものも あります。
>  実は、久野(1983)も それと おなじことを みとめていて、それを「マルチプル・チョイス式」と よんでいるそうです。たとえば、
> (15) 君は今日車で来ましたか。
> と きけば、焦点は「車で」であり、「歩いて/自転車で/バスで/車で」といった具体的な選択肢が想定される疑問文や、
> (16) 君は東京で生まれましたか、大阪で生まれましたか。
> というような選択疑問文では、「カ」のスコープが述語だけに限定されないということを久野も例外として みとめているということです。
>  久野においては例外であった これらの文を、スコープに関する久野の説をみとめない益岡は、例外としてではなく、「のだ」を必要としない「叙述様式判断文」だと みています。
>

益岡の「存在判断」「叙述様式判断」はよく分かりません。
益岡によれば「選手たちはないていますか」は存在判断ですが、「いいえ笑っています」と答えれば、これは叙述様式判断になると思います。
また益岡は「選手たちは泣いているのですか」は叙述様式判断ですが、「いいえ、泣いていません」と答えれば、存在判断になると思います。











>  結局、益岡は、「のだ」がある疑問文と「のだ」がない疑問文をくらべて、「叙述様式判断の課題設定」を経て提示する疑問文かどうかという ちがいだと説明しました。つまり、もともと「叙述様式判断」の文に なっていなければ、小金丸が観察したような ちがいが観察できるでしょうが、もともと「叙述様式判断」の文に なっていれば、「のだ」の有無による ちがいは、「課題設定」をするかどうかという点に もとめられるわけで、それは「説明の「のだ」」と構造としては おなじだという結論に なるようです。
>
> −−−−
>
> ● 感想
>
>  さて、最後の益岡の説は、一冊の本になっているので、ここで簡単に要約することは困難です。あえていえば、Oyanagiさんの説明は、だいたい益岡の説に そったものだと いえそうなので、それを参照してもらったほうが いいかもしれません。ただ、ここで のこされた問題として、
>
> ・益岡の説をみとめるとしても、「叙述様式判断型」という文が形態面からは定義されていないので、日本語教育に どこまで応用できるかという問題が ある。
>
> ・おなじく、益岡の説については、「んです」ぬきの「叙述様式判断型」の疑問文(マルチプル・チョイス式の文ということになると おもわれる)と、それに「んです」が つかわれたときの ちがいが「課題設定」をへているかどうかの ちがいだというが、結局は おなじことに なるのではないかという疑問が のこる
>
> という印象が いなめません。
>
>  むしろ、すでに文脈や状況から「課題設定」されているときに、その「課題」が疑問文じたいのなかに とりこまれてしまっているのが、マルチプル・チョイス式の文に「んです」がついた疑問文だというふうに いえないでしょうか。
>
>  逆に、教育上は、形態から きめて いける部分は、きめていったほうが わかりやすい部分があり、そういう意味では、小金丸の指摘は「こういう現象がある」というふうに うまく教育に いかせないかと おもいます。その目的のために、スコープの「のだ」をたてることにも意義があるように おもいました。
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506● ちゃんと こたえてからに してください[ きんちょ ] 01/06/08(Fri) 17:30
 Sakananomeさん、コメントは ありがたいのですが、そのまえに していただかなければならないことが あります。

 あなたがコメントされた論考のなかには、あきらかに はなしことばの「んです」を あつかったものが ふくまれています。(というか、ほとんどが そうなのですが…)

 このスレッドにコメントするのなら、以下の質問に こたえてからにしてください。

 再々度、ききます。

| あなたは、「んです」の研究が すでに たくさん
| あるということを みとめるのですか、みとめな
| いのですか? 

ちゃんと こたえてください。

akizuki.pr.co.kr/

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509● Re: ちゃんと こたえてからに してください[ Sakananome ] 01/06/08(Fri) 18:24
>  Sakananomeさん、コメントは ありがたいのですが、そのまえに していただかなければならないことが あります。
>
>  あなたがコメントされた論考のなかには、あきらかに はなしことばの「んです」を あつかったものが ふくまれています。(というか、ほとんどが そうなのですが…)
>
>  このスレッドにコメントするのなら、以下の質問に こたえてからにしてください。
>
>  再々度、ききます。
>
> | あなたは、「んです」の研究が すでに たくさん
> | あるということを みとめるのですか、みとめな
> | いのですか? 
>
> ちゃんと こたえてください。

この質問に答えないと、ここには書き込んではいけないようですので、お答えします。話しことばの「んです」についての研究は大変少ないです。「のだ」「のです」の研究はかなりありますが、かなり書きことばの「のだ」を意識したものでしょう。

日本語の一つの問題点は丁寧なことばで親しさを表現する手法が大変少ないことです。「ましょう」「でしょう」がその一つですが話しことばでは「んです」がこの点で大切になると考えています。
[上に戻る]


512● もうすこし確認させてください[ きんちょ ] 01/06/08(Fri) 21:26
 やっと こたえて いただけましたね。

> 話しことばの「んです」についての研究は
> 大変少ないです。「のだ」「のです」の研
> 究はかなりありますが、かなり書きことば
> の「のだ」を意識したものでしょう。

そうすると、Sakananomeさんの主張は、

  「のだ」「のです」の研究の ほとんどは、
  かきことばの「のだ」を意識したものなので、
  「んです」の研究ではない

ということに なりますね。(ちがっていたら訂正してくださいね。)

 ところで、「のだ」「のです」の研究は ずいぶん あるのですが、今回紹介した論文も、その おおくは、はなしことばの「んです」を意識しているとは おもいませんか? わたしが紹介した部分に でてくる例文も おおくは 会話文ですよね。で、もう一度 ききたいのですが、2点に わけて、うかがいます。

 1.はなしことばの「んです」を意識した
  「のだ」「のです」の研究
  (この意味は、はなしことばの「んです」
   から おおくの例文を採取してきて お
   こなわれているが、研究の基調として
   は「のだ」「のです」も同様のものと
   して とりあつかわれている研究、とい
   う意味にとってもらって かまいません)
  が ありうると いうことをみとめますか? 

 2.はなしことばの「んです」を意識した
  「のだ」「のです」の研究が あるとすれ
  ば、それは「んです」の研究だとは いえ
  ないのですか?


 以上、おこたえによっては、このスレッドで議論することが すべてムダになりそうなので、質問させていただきました。
 わたしは、ここで「のだ」「のです」について論じていることが「んです」と関係ないことだというのなら、そういう主張のかたと このスレッドでの「のだ」「のです」の議論をするつもりは ありません。「んです」のほうを優先したいので。あるいは、両者が動揺のものとして とりあつかえるということをさきに議論したいので。


> 日本語の一つの問題点は丁寧なことばで
> 親しさを表現する手法が大変少ないこと
> です。「ましょう」「でしょう」がその
> 一つですが話しことばでは「んです」が
> この点で大切になると考えています。

なるほど。この視点は わからなくも ありません。その視点で とりあつかえることも あるでしょうが、「んです」が いつでも かならず したしさを表現できるとは いえないので、まず「んです」が したしさと むすびつく場合と、そうでない場合をわけないと、この視点での議論は どこまでいっても曖昧模糊としたものにしか ならないと おもいます。

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513● ●これでいいんですよね!確認[ 点 ] 01/06/08(Fri) 21:51
こんにちは。
> この質問に答えないと、ここには書き込んではいけないようですので、お答えします。

いけないとか、いいとかそういう問題ではないんですよ。
Sakananome さんが、一教師として、あるいは学習者として非常なユニークな意見を書いたとしても、たぶんここまでツリーが大きくならなかったと思うんです。みんなでわいわいがやがや、その説を楽しく検証していたことでしょう。

今回は「研究が少ない」とか、「定説らしきものがない」とかSakananomeさんが書いたので、この発言をこれから学ぼうとしている人が読んだら誤解してしまうと思って、ご発言の意味を確認しているのです。

もし、上記の発言がなかったら私はコメントしていません。

で、やはり「話し言葉の」「研究が少ない」というのがSakananomeさんの意見といういうことですが、それはそれとして次のことを再確認します。

●「のだ」「のです」「んです」の3者の「意味」はほぼ同じでいいんですよね。
●意味の違いはないのだから、「のだ」の研究を用いて、「んです」の「意味」を説明してもかまわないんですよね。

●「のだ」の「意味」の研究は、「かなり」あって、説明の仕方は色々あるにしても、一応「定説らしきものがある」ということでいいんですよね。

●その定説らしきものに従って、Sakananomeさんも、実際に授業では教科書にそって説明をしているのですよね。

(これに答えて頂ければ、他の方も私も、そしてこれから読む方も、誤解することがないと思います。あとは、話し言葉の「んです」を酒の肴にわいわいがやがや楽しく論議できます。)

(点)
> > ・どの入門書でもいいのですが、「のだ」の例文は、全て「のだがあることによって意味が生じる」ことを解説しています。
> >
> > ・「のだ」と「んです」は「意味が」違うんでしょうか。
(Sakananomeさん)
> これは難しい問題です。よくわかりません。頭の中で考えると「いくのだ」「いくのです」「いくんです」がほぼ同じになります。

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593● Re: ●これでいいんですよね!確認[ Sakananome ] 01/06/20(Wed) 18:27
しばらく失礼していましたが、点さんからの質問にお答えしたいと思います。点さんの質問は次のようなものです。

>
> ●「のだ」「のです」「んです」の3者の「意味」はほぼ同じでいいんですよね。
> ●意味の違いはないのだから、「のだ」の研究を用いて、「んです」の「意味」を説明してもかまわないんですよね。
>

・「のだ」「のです」「んです」は「のだ」を原形にしていますので、3者の原理(これがなんであるかは議論があるにしても)は同じです。

・「のだ」は書きことばにも話しことばにも使われますが、両者は大きく違うものとして考えたほうがいいと思います。

・小説、論文などで使われる「のだ」は、「のである」と同様に(いろいろな使い方があるにしても)その主要な働きは「述語を重くする」「つよめ」にあると思います。日本語教育ではこの「のだ」はそれほど重要ではないと思います。「のである」は必ず教えなければなりませんが。

・話しことばの「のだ」は「んです」に近くなります。(以下の議論はすべて話しことばの「のだ」についてです。また、話しことばでは「のだ」は「んだ」になりますが、ここでは「のだ」と「んだ」の違いは無視します。)ただ両者は大きく違うものとして教えたほうが(分析したほうが)よいと思います。理由はいくつかあります。

・「のだ」は「のです」「んです」(以下「のです」と「んです」はほぼ同じとし、「んです」に代表させる)に置き換えることができると思います。「のだ」から見た「んです」は同じ物です。でも「んです」のかなりの部分は「のだ」に置き換えることはできないと思います。「のだ」にくらべて「んです」ははるかに多くの働きをもっているからです。「んです」から見れば「のだ」は同じとは言えないと思います。

1 「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても「どこに行くのだか」とは言えない。「どこに行くの」「どこに行くのか」が「のだ」に入るのかどうかはなんとも言えない。
2 「結婚していたんですか(確認)」と言えても「結婚していたのだか(確認)」は言えない。「結婚していたのだ」は確認に使いにくい。
3 「結婚していたんですか!(大きい驚き)」はいえても「結婚していたのだか」は言えない。また「結婚していたのだ」は大きい驚きを表わすことができない。
4 「そうなんですか(相づちの一種)」はあっても「そうなのだか」はない。「そうなのだ」は相づちとして使いにくい。(私の感覚では、ひとり言に近くなる。)
5 「結婚していたんですね(確認)」は言えても、「結婚していたのだね」は確認としてはかなり言いにくい。
6 「あした、皆で映画を見に行くんだけど、、(誘い)」は言えても、「あした、皆で映画を見に行くのだが」を誘いに使うのはかなり難しい。
7 このような例はかなりあると思います。

・「行く」と」「行きます」は同じであっても、「だ」と「です」は必ずしも同じではないのでしょう。「だ」は常に使い方に大きな制約が伴っています。会話では「のだ」は「の」になることが多いのでしょう。でもこの「の」と「のだ」が同じなのかどうなのか、相当検討が必要でしょう。

・普通体の会話では十分に親しみが出せるので、「のだ」を和らげとして使う必要はあまりありません。普通体の会話では「のだ」は必ずしも必須のものではありません。使う頻度もかなり低いと思われます。一方丁寧体の会話では親しみ表現する手法がとぼしいので、「んです」が多用されます。「のだ」の役割と「んです」の役割ではその範囲重さが大きく異なっています。

・以上から「のだ」の研究で「んです」の研究の代用をすることができないことがお分かりいただけたのではないかと思います。  


> ●「のだ」の「意味」の研究は、「かなり」あって、説明の仕方は色々あるにしても、一応「定説らしきものがある」ということでいいんですよね。
>
> ●その定説らしきものに従って、Sakananomeさんも、実際に授業では教科書にそって説明をしているのですよね。
>

「のだ」の研究がかなりあってもそこから「んです」の意味働きを導きだすことはできないと思います。「んです」の分析は最初から「んです」として始めなければならないでしょう。もちろん私は「のだ」の研究に基づいて授業をしているのではありません。
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601● 活用のちがいは、意味や機能の ちがいではない[ きんちょ ] 01/06/21(Thu) 13:25
● つぎの部分は、いままでのSakananomeさんの主張には なかった部分ですね。最初から そういう主張だったとは おもえないのですが、この際、そんなことは かまわないのであって、これをちゃんと みとめてくださることのほうが 大切です。


----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>
   ↓
・「のだ」は「のです」「んです」(以下「のです」と「んです」はほぼ同じとし、「んです」に代表させる)に置き換えることができると思います。「のだ」から見た「んです」は同じ物です。でも「んです」のかなりの部分は「のだ」に置き換えることはできないと思います。「のだ」にくらべて「んです」ははるかに多くの働きをもっているからです。「んです」から見れば「のだ」は同じとは言えないと思います。
              ↑
<<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----


これは、

 「んです」のカバーする範囲=「のだ」のカバーする範囲+α

ということを いっていらっしゃるのだと おもいます。ですから、この「α」の部分については、「のだ」の研究でもって「んです」の分析の代用は できないけれども、「α」以外の部分は代用できるということじゃありませんか?

 


● 語学の研究というのは用例採取が基礎になりますから、「カバーする範囲」については かなり客観的な議論が できます。論文になって あらわれているのは、採取された用例をもとにした分析の部分が おもで、基礎になっている用例じたいは すべて あらわれてくるわけでは ありません。しかし これは、「カバーする範囲」について いいかげんに とりあつかっているということではなくて、そこには 議論の前提としての共通認識があるものと かんがえられるから、あえて くわしくは ふれていないのです。

 「んです」と「のだ」がカバーする範囲の こまかい ちがいについては、わたしが(No.528)で説明したような指摘が されており、これについては おおきな見解の ちがいがないので、「のだ(のです、んです、)」の分析においても それが議論の前提になっていると いえるでしょう。

 つまり、うえに わたしが かいた「α」の部分について しったうえで、「α」以外の共通部分をつらぬいている性質は なんなのかということを「のだ」の研究と いわれるものの大部分が とりあつかっているのです。




● これだけ説明すれば、「のだ」(に代表される変異体)の研究が「んです」の研究でもあるのだということは簡単に納得できると わたしなんか おもうのですが、それでも「α」の部分に こだわるのであれば、なにが「α」なのかということを明示することが必要だと おもいます。




● たとえば、

  「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても
  「どこに行くのだか」とは言えない

と いうことが、この「α」に かかわることなのかと いえば、それは ちがいます。「んです」も「のだ」も活用する単位なのであって、その活用のしかたが、おなじではないと いうことです。

 これは、

  「うみに いくだろう」と いえても、
  「うみに いきますだろう」とは いえない

という事実をもって、「いく」と「いきます」は ちがうと主張するようなもので、とりたてて「んです」と「のだ」の活用の しかた以上の ちがいを説明したことには ならないのです。ここに かかれたこと自体は、単に「のです/んです」の疑問形は「のですか/んですか」だけれども、「のだ/んだ」の疑問形は「のか/の↑」であるという了解が ひとこと あれば解決することでしょう。そして、この「了解」は、一例をあげれば「きれいです」と「きれいだ」についての同様の「了解」と おなじ類型をしめしているのですから、なにも非合理なところは ありません。

 つまり、このようなことをいくら ならべても、それは、「のだ」の研究をしている ひとたちは とっくに おりこみずみであって、その研究が「んです」の おおきな部分に適用できるということに対する反証には なりません。
(たとえば、野田春美さんの著作に『「の(だ)」の機能』という本が ありますが、このタイトルに「の(だ)」という かきかたが されていること自体が、ここでSakananomeさんが指摘したことをふまえたうえで、「のだ」「のです」「んだ」「んです」「の」などの形態で実現される表現の「共通」の部分をとりだして分析しているのだと いうことをしめすための工夫だということが わかると おもいます。ちなみに、野田さんは、「のだ」と同等に あつかえる「の」と、そうでない「の」についても論考をだしています。それだけの てつづきをはぶかずに研究しているのです[(No.528)参照]。それでも Sakananomeさんは、あいかわらず、「のだ」の研究は「んです」の研究ではないと主張するみたいですが。)




● ちなみに、うえの例は、みちで しっている ひとに あったときに、

  「どこに いくんですか」と たずねるのが自然で、
  「どこに いきますか」とは いいにくいという事実

と、その あいてが したしい ともだちだったときにでも、

  「どこに いくの」と たずねるのが自然で、
  「どこに いく?」とは いいにくいという事実

との あいだに同質の関係があるということをしめすのには好例です。

 つまり、この例ひとつをみても、Sakananomeさんの以下の疑問点には、一定の解答が でているということです。


----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>
   ↓
1 「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても「どこに行くのだか」とは言えない。「どこに行くの」「どこに行くのか」が「のだ」に入るのかどうかはなんとも言えない。
              ↑
<<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----


「なんともいえない」のではなくて、うえのような例では、はっきりと「対応している」と いえるのです。

 そして、


----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>
   ↓
「のだ」の研究がかなりあってもそこから「んです」の意味働きを導きだすことはできないと思います。「んです」の分析は最初から「んです」として始めなければならないでしょう。
              ↑
<<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----


などと いうわけではないと いうことが、この例をみるだけでも、よく わかります。




● Sakananomeさんの たちばに たって、「α」の部分を擁護しようと おもえば、わたしが(No.528)で すこし ふれたことですが、ひとりごとのような内的言語では「のです」「のだ」の形式は あらわれないと いうような観察は有意差であるかもしれません。また、以前に かいたように、はなしことばでの「のだ」(と その変異体)の あらわれかたと、かきことばでの「のだ」(と その変異体)の あらわれかたには、たしかに ちがいが あります。

 しかし、これは より本質的には、音声言語と文字言語の ちがいなのではなく、ダイアローグとモノローグの ちがいなのではないかと おもいます。ダイアローグ(別に2人と かぎる必要は ないのですが)であれば、文字言語であっても、「問いかけ」「確認」「相づち」「驚き」などの用法が あらわれてくるでしょう。また、常体と敬体とでの あらわれかたの ちがいに ついても、さきほどの「どこへ いくんですか。/どこへ いくの?」のように、基本的には対応することが ほとんどだと いえるでしょう。これは、教科書にでてくる敬体の会話で「んです」が つかわれている部分を常体に なおしたときに「の」が必須であるか、すくなくとも自然であると感じられるものが ほとんどであること、反対に、「の↓」「んだ」が つかわれている常体の会話を敬体にしようとすると、「んです」が、「の↑」が つかわれている常体の会話を敬体にしようとすると、「んですか」が必須であるか、すくなくとも自然であると感じられるものが ほとんどであることから わかります。これについても、いままでの投稿で実証してきました。こうした方法で、より おおくのネイティブ・スピーカーをモニターにして調査していけば、はっきりすることだと おもいます。

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614● Re: 活用のちがいは、意味や機能の ちがいではない[ Sakananome ] 01/06/23(Sat) 02:37
きんちょさん、こんにちは。このところ忙しくて充分にレスできなくてすみません。

きんちょさんの「のだ」と「んです」は同じだと言う意見よくわかりました。でも私は両者は違うと考えています。きんちょさんは同じだと言う立場で、私は違うと言う立場でこれから「んです」を考えていけばよいのだと思います。もうこれ以上同じか違うかと言う議論は止めたいと思います。

以上のことを踏まえた上で、せっかくきんちょさんが大きな書き込みをしているので簡単なコメントをしたいと思います。

>
> ----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>    ↓
> ・「のだ」は「のです」「んです」(以下「のです」と「んです」はほぼ同じとし、「んです」に代表させる)に置き換えることができると思います。「のだ」から見た「んです」は同じ物です。でも「んです」のかなりの部分は「のだ」に置き換えることはできないと思います。「のだ」にくらべて「んです」ははるかに多くの働きをもっているからです。「んです」から見れば「のだ」は同じとは言えないと思います。               ↑
> <<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----

> これは、
>  「んです」のカバーする範囲=「のだ」のカバーする範囲+α
> ということを いっていらっしゃるのだと おもいます。ですから、この「α」の部分については、「のだ」の研究でもって「んです」の分析の代用は できないけれども、「α」以外の部分は代用できるということじゃありませんか?
>

はい代用できます。ただ代用できる部分にこだわると「んです」の本当の姿が見えないのでは、代用できない部分に「んです」の本当の姿があるのではないかというのが、私の考えです。

>>
> ● 語学の研究というのは用例採取が基礎になりますから、「カバーする範囲」については かなり客観的な議論が できます。論文になって あらわれているのは、採取された用例をもとにした分析の部分が おもで、基礎になっている用例じたいは すべて あらわれてくるわけでは ありません。しかし これは、「カバーする範囲」について いいかげんに とりあつかっているということではなくて、そこには 議論の前提としての共通認識があるものと かんがえられるから、あえて くわしくは ふれていないのです。
>

この部分ほとんど分かりません。特に「議論の前提としての共通認識がある」と言う部分はわかりません。こんなものがあれば苦労しません。

>
> ● これだけ説明すれば、「のだ」(に代表される変異体)の研究が「んです」の研究でもあるのだということは簡単に納得できると わたしなんか おもうのですが、それでも「α」の部分に こだわるのであれば、なにが「α」なのかということを明示することが必要だと おもいます。
>
わたしは「んです」と「のだ」を比べているのではありませんので、このようなことに興味ありません。これは「のだ」から出発しているきんちょさんの仕事でしょう。私が興味あるのは「んです」の働きです。
>

> ● たとえば、
>   「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても
>   「どこに行くのだか」とは言えない
> と いうことが、この「α」に かかわることなのかと いえば、それは ちがいます。「んです」も「のだ」も活用する単位なのであって、その活用のしかたが、おなじではないと いうことです。
>  これは、
>   「うみに いくだろう」と いえても、
>   「うみに いきますだろう」とは いえない>
> という事実をもって、「いく」と「いきます」は ちがうと主張するようなもので、とりたてて「んです」と「のだ」の活用の しかた以上の ちがいを説明したことには ならないのです。ここに かかれたこと自体は、単に「のです/んです」の疑問形は「のですか/んですか」だけれども、「のだ/んだ」の疑問形は「のか/の↑」であるという了解が ひとこと あれば解決することでしょう。そして、この「了解」は、一例をあげれば「きれいです」と「きれいだ」についての同様の「了解」と おなじ類型をしめしているのですから、なにも非合理なところは ありません。
>

これはきんちょさんの誤解でしょう。私のポイントは「のだ」には疑問形がないことです。これは「んです」と「のだ」の大きなちがいでしょう。
ただ、きんちょさんは「のだ」の疑問形として、「のか」あるいは「の」を考えているようですが(これは新しい主張ですね)、「のだ」は「んです」と同じだ、「の」と同じだ、「のである」と同じだと、どうして使い方に強い制約のある「のだ」にそれほどこだわるのですか。

>
> つまり、このようなことをいくら ならべても、それは、「のだ」の研究をしている ひとたちは とっくに おりこみずみであって、その研究が「んです」の おおきな部分に適用できるということに対する反証には なりません。
> (たとえば、野田春美さんの著作に『「の(だ)」の機能』という本が ありますが、このタイトルに「の(だ)」という かきかたが されていること自体が、ここでSakananomeさんが指摘したことをふまえたうえで、「のだ」「のです」「んだ」「んです」「の」などの形態で実現される表現の「共通」の部分をとりだして分析しているのだと いうことをしめすための工夫だということが わかると おもいます。ちなみに、野田さんは、「のだ」と同等に あつかえる「の」と、そうでない「の」についても論考をだしています。それだけの てつづきをはぶかずに研究しているのです[(No.528)参照]。それでも Sakananomeさんは、あいかわらず、「のだ」の研究は「んです」の研究ではないと主張するみたいですが。
> ● ちなみに、うえの例は、みちで しっている ひとに あったときに、
>   「どこに いくんですか」と たずねるのが自然で、
>   「どこに いきますか」とは いいにくいという事実
> と、その あいてが したしい ともだちだったときにでも、
>   「どこに いくの」と たずねるのが自然で、
>   「どこに いく?」とは いいにくいという事実
> との あいだに同質の関係があるということをしめすのには好例です。>
>  つまり、この例ひとつをみても、Sakananomeさんの以下の疑問点には、一定の解答が でているということです。
>
> ----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>    ↓
> 1 「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても「どこに行くのだか」とは言えない。「どこに行くの」「どこに行くのか」が「のだ」に入るのかどうかはなんとも言えない。               ↑
> <<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----
>
> 「なんともいえない」のではなくて、うえのような例では、はっきりと「対応している」と いえるのです。
>

「のだ」と「の」ははっきりと同じだと言う意見承りました。もしそうであればぜひ「のだ」の研究ではなく「の」の研究をして欲しいと思います。「のだ」は日本語教育には必ずしも必須のものではありませんが、「の」は必ず教えなければならないからです。

>
>  しかし、これは より本質的には、音声言語と文字言語の ちがいなのではなく、ダイアローグとモノローグの ちがいなのではないかと おもいます。ダイアローグ(別に2人と かぎる必要は ないのですが)であれば、文字言語であっても、「問いかけ」「確認」「相づち」「驚き」などの用法が あらわれてくるでしょう。また、常体と敬体とでの あらわれかたの ちがいに ついても、さきほどの「どこへ いくんですか。/どこへ いくの?」のように、基本的には対応することが ほとんどだと いえるでしょう。これは、教科書にでてくる敬体の会話で「んです」が つかわれている部分を常体に なおしたときに「の」が必須であるか、すくなくとも自然であると感じられるものが ほとんどであること、反対に、「の↓」「んだ」が つかわれている常体の会話を敬体にしようとすると、「んです」が、「の↑」が つかわれている常体の会話を敬体にしようとすると、「んですか」が必須であるか、すくなくとも自然であると感じられるものが ほとんどであることから わかります。これについても、いままでの投稿で実証してきました。こうした方法で、より おおくのネイティブ・スピーカーをモニターにして調査していけば、はっきりすることだと おもいます。
>

「の」と「んです」が対応する、同じだと言うことであれば、だいぶ話は違います。必ずしも反対ではありません。
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616● 共通要素を抽出することからの「出発」[ きんちょ ] 01/06/23(Sat) 09:50
> きんちょさん、こんにちは。このところ忙しくて
> 充分にレスできなくてすみません。

レスしなくても かまいませんが、議論をするために はっきりと質問したり、確認をもとめたりしているところについては なにも こたえずに、自分が なにか いいたくなったときだけ でてきて すきなことをいうのは、いただけませんね。


> きんちょさんの「のだ」と「んです」は同じだと
> 言う意見よくわかりました。でも私は両者は違う
> と考えています。きんちょさんは同じだと言う立
> 場で、私は違うと言う立場でこれから「んです」
> を考えていけばよいのだと思います。もうこれ以
> 上同じか違うかと言う議論は止めたいと思います。

そうじゃないでしょう。あなたが、「んです」の研究は すくないと いったから、「それはちがう」と かいているのです。Sakananomeさんが するべきことは、

 ・「んです」の研究は すくない

と いったことを訂正して、

 ・Sakananomeの「立場」に たった「んです」の研究は すくない

と いいなおすことです。


> はい代用できます。ただ代用できる部分に
> こだわると「んです」の本当の姿が見えな
> いのでは、代用できない部分に「んです」
> の本当の姿があるのではないかというのが、
> 私の考えです。

 「本当の姿」って、なんですか? 「本質」みたいなことをいっているのでしょうか? 

 それは それでSakananomeさんの問題意識として理解できますが、自分が注目しているところが「ほんとう」で、ほかの部分に注目していると「こだわる」というような いいかたをするのは、どうもなあ。

 わたしは、「んです」の「本質」が なにかというようなことは とりあえず議論しなくてもいいと おもっています。この掲示板での「んです」の議論は、つぎの かおりんさんの(No.378)から はじまっています。

----かおりん さん(No.378)---->>>>
例えば「食べませんか」とお菓子を初めて勧めるときに「食べないんですか」というのは明らかに間違いですが,これは相手に不必要な説明を求めているから無礼な印象を与えていると考えてよいのでしょうか。また,「これは田中さんのですか」「ええ,そうです」で済むところで「そうなんです」というのも,ないところで関連性を暗示しているため無用の混乱を招いていると考えて良いのでしょうか。
<<<<----かおりん さん(No.378)----

ここでの問題を説明するうえで、これが「代用できる」部分の問題なのか、「α」部分の問題なのか、ということなんですね。「本質」かどうかは関係ありません。具体的に生じている問題について、どう対処するかということが大切だと おもうんです。
 で、Sakananomeさん以外のひとは、はじめから「代用できる」部分の問題として あつかって、この疑問をといていこうとした。Sakananomeさんは、そもそも かおりん さんの問題意識を共有しない たちば(ここでの「食べないんですか」「そうなんです」に問題があるということ自体、どうも みとめていないらしいということが あとで わかった)から、「んです」は「文法の問題ではなく「スタイル」の問題」「基本的な働きを説明して、あとは自由に使いなさいとするのが良い」と いったんでしょう? 最初の問題意識を共有できないのですから、「本当の姿」だと いわれても、もとめる こたえには とおいな、というのが すなおな感想です。

> この部分ほとんど分かりません。特に
> 「議論の前提としての共通認識がある」
> と言う部分はわかりません。こんなも
> のがあれば苦労しません。

いやいや、「α」の部分があるということくらい、みんな しっているんだよ、ということです。これを しっていても、苦労は します。これは ただの出発するまえの準備作業なんですから。Sakananomeさんは、出発もしないで、そのまえの準備が よくないといいながら はなしをむしかえしているんですよ。(しかも、とりたてて あたらしい発見が あるわけでもない。)


> わたしは「んです」と「のだ」を比べている
> のではありませんので、このようなことに
> 興味ありません。これは「のだ」から出発
> しているきんちょさんの仕事でしょう。私が
> 興味あるのは「んです」の働きです。

あなたが興味がないとしても、ひとの しごとにケチをつけるようなことをいうのは、いけませんね。もういちど かきますが、だったら、

 ・「んです」の研究は すくない

と いったことを訂正して、

 ・Sakananomeの「興味」に あった「んです」の研究は すくない

と いいなおすことです。




 ところで、わたしはSakananomeさんの理解しているような意味で「のだ」から出発しているのでは ありませんよ。「のだ」「んだ」「の」「のです」「んです」の共通要素を抽出することから出発しています。Sakananomeさん以外の かきこみも そうだし、ここで とりあげられた先行研究も すべてそうです。「のだ」の研究と いわれているものは、実は「んです」の かたちで あらわれる例文をたくさん採集して、「んです」をあつかっているのだということは、さんざん いいましたよね。


> これはきんちょさんの誤解でしょう。
> 私のポイントは「のだ」には疑問形が
> ないことです。これは「んです」と
> 「のだ」の大きなちがいでしょう。

誤解していませんよ。そのSakananomeさんの認識が、「活用」ということを理解していない認識だと指摘したのです。


> ただ、きんちょさんは「のだ」の疑問形と
> して、「のか」あるいは「の」を考えてい
> るようですが(これは新しい主張ですね)、
> 「のだ」は「んです」と同じだ、「の」と
> 同じだ、「のである」と同じだと、どうし
> て使い方に強い制約のある「のだ」にそれ
> ほどこだわるのですか。

 あのう、…「あたらしい主張」なのではなくててすね、わるいけど、そんなこと日本語教師だったら「常識」に属することじゃありませんか? 

 「元気ですか?」を普通体(常体、基本体)で表現すると どうなりますか? 「*元気だか?」とは いわないでしょう? 「元気↑」とか、「元気か?」「元気かい?」と ききますよね。

 「使い方に強い制約のある「のだ」にそれほどこだわるのですか」と おっしゃるけれども、「使い方に強い制約がある」のは、Sakananomeさんが「〜のだ」の疑問形をつくれなかったからじゃないですか。「元気だ」の疑問形を「元気↑」とか、「元気か?」「元気かい?」と つくれる ひとだったら、「いくのだ」「結婚していたのだ」「そうなのだ」の疑問形を「いくの↑/いくのか?/いくのかい?」「結婚していたの↑/いたのか?/いたのかい?」「そうなの↑/そうなのか?/そうなのかい?」と つくるのが あたりまえでしょう? そして、そのように つくれば、「といかけ」も「確認」も「おどろき」も「あいづち」も あらわすことができるのに、この あたりまえのことをせずに、「*のだか」などという ありもしない形式をつくりだして「のだ」は「んです」と ちがうなどと主張するほうが、よっぽど ご自分の主張に「こだわって」いるとしか みられません。


> 「のだ」と「の」ははっきりと同じだと
> 言う意見承りました。もしそうであれば
> ぜひ「のだ」の研究ではなく「の」の研
> 究をして欲しいと思います。「のだ」は
> 日本語教育には必ずしも必須のものでは
> ありませんが、「の」は必ず教えなけれ
> ばならないからです。

 全然、理解していませんね。せっかく「の(だ)」という書名につかわれた表記の意味を説明したのに。

 いいですか? Sakananomeさんは、「のむ」の語彙的な意味を「たべる」と くらべるときに、「のむ↑」「のむ↓」「のむよ」「のむさ」「のみます」「のんで」「のんだ」「のまない」「のんでください」「のんではいけません」「のまなければなりません」の なかにある「のむ」の意味を、それぞれ別のものとして あつかいますか? 

 *「のみます」は丁寧さをあらわすから、「のむ」とは別のものだ

と主張しますか?  

 はっきりいって、Sakananomeさん以外の投稿も研究も、「のだ」「んです」を「おなじもの」として あつかうと いっているときに、その共通部分をあつかっているのです。それを「の」と表現するのなら、その「の」を研究しているのです。「の」といっても、連体助詞の「の」じゃなくて、「のだ」「のです」「んだ」「んです」などから「だ」や「です」の文体にかかわる成分をぬきとったときに あらわれる「の」や「ん」に あたる部分をあつかっているのです。それを理解していないのは、Sakananomeさんのほうです。


> 「の」と「んです」が対応する、同じだと
> 言うことであれば、だいぶ話は違います。
> 必ずしも反対ではありません。

 やっと ご理解いただけたようで、ありがとうございます。



 わたしたちが言語を分析するときに、なにが「おなじ」成分で、なにが「ちがう」成分なのかということは、結局は、その分析の目的にてらして、どのように あつかえば説明したり整理したりするのに便利か、ということによって きまります。「のむ」という動詞について「のま(ない)」「のめ」「のみ(ます)」「のんで」「のんだ」などを別語とは しないのも、これが規則的に変化していて、その規則的な変化に応じて、はたらきも規則的に かわってくることが観察できるからでしょう。
 「のむ」のように語彙的な意味が はっきりしていれば、だれも そのことで まよったりは しません。ただ、「のだ」については、「の」と かいただけでは文末でモダリティーをあらわす形式であることが わかりにくく、「だ」「です」と むすびついたときに独特の機能を発揮するので、「の」「ん」などとは かきにくくて「のだ」と かかれているだけです。日本語教育では、「みたい」「よう」「そう」などというのも、「みたいだ」「ようだ」「そうだ」というように表現されることが おおいわけですが、これをもって「みたいだ」は「みたいです」と ちがうと かんがえる ひとが いないのと、おなじことです。
 もちろん、「だ」や「です」の つかいかたを べつべつに説明することが あるように、「のだ」や「んです」の つかいかたを別々に説明することが あっても かまいません。しかし、最初の かおりんさんの問題提起を解決するためには、そのような説明方法よりも、「のだ」「のです」「んだ」「んです」「の」などの共通部分をとりだしたものである「の/ん(だ/です)」とでも表記する以外に しめしようのない要素の一般的な性格をもとに議論したほうが わかりやすいと おもいます。あくまで、かおりんさんが「問題だ」と おもったことをおなじように「問題だ」と おもったうえで いえることですけれども。

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618● 学校文法での あつかいについて ひとこと[ きんちょ ] 01/06/23(Sat) 12:17
 さきほどの投稿で、以下の部分なんですが、よく かんがえたら、学校文法でも「よう」「そう」「みたい」は「ようだ」「そうだ」「みたいだ」までで一単語ですね。さらに、辞書の みだしにしても、いわゆる形容動詞は「だ」をとった かたちが みだしになるけれども、これらは「助動詞」であるということで、「だ」をふくめて みだしに たてられています。

> 「のだ」については、「の」と かいただけ
> では文末でモダリティーをあらわす形式で
> あることが わかりにくく、「だ」「です」
> と むすびついたときに独特の機能を発揮す
> るので、「の」「ん」などとは かきにくく
> て「のだ」と かかれているだけです。日本
> 語教育では、「みたい」「よう」「そう」
> などというのも、「みたいだ」「ようだ」
> 「そうだ」というように表現されることが
> おおいわけですが、これをもって「みたい
> だ」は「みたいです」と ちがうと かんが
> える ひとが いないのと、おなじことです。


それでは、「みたいだ」で1単語だと、「みたいです」は どうなるのかという疑問が でてきます。学校文法では、「です」は1語の助動詞で、この ばあいには、「語幹につく」と説明されるわけです。「きれいです」も「きれいだ」という形容動詞の語幹「きれい」に、助動詞「です」が つくことに なっているはずです。

日本語教育文法では、こういう わかりにくさを排して、「きれい」「みたい」を原形として、それが普通体の現在肯定になるときには「だ」をつけ、丁寧体の現在肯定になるときには「です」をつけると おしえるのではないでしょうか。(さらにいうと、日本語教育文法では、このときの「だ」「です」は助動詞ではなく、「きれい」「みたい」の活用語尾として あつかうのが ふつうだと おもいます。)

このような日本語教育文法の体系のなかでは、「のだ(=んだ)」も「みたいだ」と同様に、「の(=ん)」「みたい」を原形とする助動詞だというふうに説明するほうが一貫するのではないでしょうか。実際、寺村秀夫氏は、「ムードの助動詞」と よんでいます。「の」には、連体助詞や代名助詞のような つかいかたが あって、さらに準体助詞としても「んです」とは異質なものが あります。ですから、「のだ(=んだ)」の形式をとっていても「ムードの助動詞」と いえる部分と そうでない部分の境界は むずかしいところが あるかもしれません。ただ、わたしの意見としては、実際上、「んだ」の形式と、「んだ」に かきかえられる形式を「ムードの助動詞」として みるという定義でも じゅうぶんではないかと おもいます。

 まさに、「のだ」が「んだ」に、「のです」が「んです」に かきかえられる領域が、「説明」とか「関連づけ」とか「結束性」に かかわる独特な用法をもたらす部分だと おもいます。反対にいえば、このような独特な部分をとりだして、記述しようとするのなら、それは「の」と「ん」が交換可能なものとして とりださなければならず、もし交換不可能なら、それこそ 交換できない部分のみを別語として とりあげるべきではないでしょうか。

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619● 辞書でも「助動詞」[ きんちょ ] 01/06/23(Sat) 15:52
 ふと『集英社 国語辞典』(第2版)をみたら、「のだ」が助動詞として みだしにたっていました。巻末の活用表にも、「だ」の となりに のっています。

 活用表での記述は、「反省的な指定」(ちなみに「だ」は「指定」)というのが「主な意味」で、「のだろ・のだっ・ので・のだ・のなら」と活用し、「接続」は「連体」と なっています。

 みだしとしては、「んだ」が
   んだ 〔助〕⇒ のだ〔助動〕

とあり、「のだ」に ついては、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 のだ
 〔助動〕[動詞・形容詞・形容動詞の連体形、動詞型・
  形容詞型・形容動詞型助動詞の連体形、特殊型助動詞の
  「た」「ぬ(ん)」の連体形に接続する。未然・連用・
  終止の三形があるが、未然形は「のだろう」、連用形は
  「のである」「ので(は)ない」の形のみ、すなわち終止
  用法にのみ用いられる]

 1.反省的、関係的な判断を表す。丁寧体として「のです」
  「のでございます」、文章体としての「のである」がある。
  終助詞「さ」「よ」「ね」が「だ」を代行して、「のさ」、
  女性語として「のよ」「のね」の形も用いられ、「の」の
  転じた「んだ」「んです」の形もある。疑問形は「のか」
  「のですか」のように、通常体と丁寧体が整合しない。

  ア.反省的に説明づける関係を表す。説明されるべき一つの
   事柄を主語とし、あるいはその前文にもち、それに対して
   述語となる形をとる。「波が白く光るのは曇った海の悲し
   みなのです」「夜更けの海を独り見る。遠い思いを流す−」

  イ.事柄の確実さを強調し、また、人にそれを確言する。
   「かわいわかいとなくんだよ」「冷たい心じゃないんだよ」
   「あなたひとりが欲しいのよ」

  ウ.一つの事柄の、行為を主張する。対自的には決意、対他
   的には命令を意味する。「ぼくは生きるぞ、生きるんだ」
   「きっと帰ってくるんだとお岩木山で手を振れば」

 2.未然形に推量の助動詞「う」の下接した「のだろう」「
  のでしょう」は、疑問の昇調イントネーションを伴って用
  いられたとき、相手に確認を求める意を構成する。「来る
  のだろう?」


 ◇準体助詞「の」に指定の助動詞「だ」の下接したものが
 終止法形式にあって独自に固定したもの。助詞相当としての
 「ので」「のに」は、準体助詞「の」に指定の助動詞「だ」
 の二つの連用形「で」「に」が接し、それが接続関係を示す
 形式として固定したもので、従ってこの助動詞相当「のだ」
 とは間接的な連続がたどられる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

と かかれています。

 最近の辞書は、すすんでいるんですね。

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622● コメントありがとうございます。[ 点 ] 01/06/24(Sun) 08:35
こんにちは。
質問にせっかく答えて頂いたのに、コメントが遅れて申し訳ありませんでした。まずはお礼を述べます。

内容を何度も読んでみましたが、これ以上コメントを続けても同じ事の繰り返しのように思えてなりません。新しいものがないようなら一度終わりにしたほうが良いかもしれません。

さて、いままでの主張をまとめると次の1行に集約されると思います。

■ 「のだ」と「んです」は違う。←

> ・以上から「のだ」の研究で「んです」の研究の代用をすることができないことがお分かりいただけたのではないかと思います。  

> 「のだ」の研究がかなりあってもそこから「んです」の意味働きを導きだすことはできないと思います。「んです」の分析は最初から「んです」として始めなければならないでしょう。もちろん私は「のだ」の研究に基づいて授業をしているのではありません。


3点ほど指摘しておきます。

1 どの教師用の解説や、論文でもいいと思いますが「んです」を含む例文について解説しているものについて、どのような点がその説明では説明不足であるかを教えていただけないと私には判断できませんし、多くのかたにとってもそうだと思います。
これを明らかにすることによってSakananomeさんの御主張がよりはっきりするのではないかと思いますが、これはSakananomeさんの研究課題にしていただければと思います。
Sakananomeさんに取っては不十分な解説かもしれませんが、少なくとも、「んです」を含む文についての解説はたくさんあるという事実は言えると思います。

2 しかしながらSakananomeさんは、筑波の解説を評価しているようです。ここの筑波の説明は先行研究の「のだ」「んです」をもとにしているのではないのでしょうか。つまり「上手に説明できる」だけの分析なり解説がすでにあることを示唆しているのではないでしょうか。 

>つくばのSituational Functional Japanese vol.1 Notes page124でとても上手に説明しています。

>SFJでは「んです」の働きを、理由を求めるあるいは説明する、確認、驚きの表現の3つにしています

3 充分な先行研究がないと言いながらも、「んです は柔らげである」という結論だけはお持ちのようです。
 それに対しては、必ずしもそうではない場合もあるという疑問をいくつか書きましたし、複数の本にも「んです」を適切に使わないことによって失礼になる場合もあるということが書かれています。

 これはSakananomeさんと私の個人的な語感の違いだけではないと考えるべきではないでしょうか。

Sakananomeさんの御主張の通りに、もしも「んです」の研究が本当に少なく不十分であるというなら、Sakananomeさんの結論だけが正しいとは言えないはずです。
Sakananomeさんとは違う語感をもつ人がいて、そして本を書いている人もいるという事実も、今後の研究の参考にしていただければと思います。

そしてより多くの人が納得できるような説明をSakananomeさんに期待したいと思います。

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624● 筑波の『S.F.J.』の説明について[ きんちょ ] 01/06/24(Sun) 11:50
 点さん、こんにちは。

 冷静な うけこたえ、いつも参考になります。

> 2 しかしながらSakananomeさんは、筑波の
> 解説を評価しているようです。ここの筑波の
> 説明は先行研究の「のだ」「んです」をもと
> にしているのではないのでしょうか。つまり
> 「上手に説明できる」だけの分析なり解説が
> すでにあることを示唆しているのではないで
> しょうか。 

 これについて、わたしはNo.419(
http://nihongo-online.jp/tree02/treebbs.cgi?kako=1&log=419
)で解説をしました。

 あのときは あえて かきませんでしたが、わたしが かいたことは、ソウルで ひらかれている「在韓日本語教師研究会」での発表で『S.F.J』の作成に たずさわった かたから直接 うかがったことです。そのときの発表の記録も のこっています。

 もちろん、観察の するどい教師なら、そんな機会がなくても、教科書のイラストをみれば、その意図するところは わかると おもいます。しかし、そう おもって わたしが紹介したことが、わたし ひとりの かってな解釈だと おもわれるのは たいへん心外なので、こんな いわずもがなのことも かかなければいけなくなりました。

 ここは自由な掲示板なのですから、どんな意見も かきこむのは かまわないと おもいます。しかし、論文・資料・調査・講演、などなど さまざまな日本語教師としての勉強や体験をもとに かきこんでいることに対して、その意見に賛成でないからといって、もとの論文・資料・調査・講演などの存在までも否定したり、矮小化したり するようなことは モラルに反する言動だと おもいます。
 自分の意見に反する研究が あることをみとめたうえで、あえて少数派の主張をするのなら、別に かまいません。あとは読者が判断できますから。しかし、具体的に提示された文献の ひとつにでも あたってみて それに則して批判するでもなく、「それは この主題での研究ではない」などと“ウソ”をいっていることを放置は できないのです。

 わたしが このことに こだわる理由は、もうひとつ あります。わたしが経験してきた日本語教育の現場では、えてして この種の“ウソ”でも とおしてしまう人物がボス的な存在に なっていたと いうことです。そういう教師がいても、それをおさえられる役わりの ひとが まわりにいれば まだ いいのですが、そうでないと、最悪のばあい、ほかの教師はウソと わかっていても それを学習者に おしえさせられることになります。
 日本語を専攻してきた経験のない新人教師は、授業はへたでも、語学的な分析能力はベテラン教師に まさっていることが あります。それなのに、その長所の部分まで このようなボス的な教師によって おさえこまれるのをみるのは いたたまれないものが あります。

 せめて掲示板では そのようなことをなくしていきたいと おもうのです。

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632● あること−ないこと[ 点 ] 01/06/25(Mon) 06:48
こんにちは。

「研究があること」を説明する場合には、すでにある資料を示せば良いのですが、それにたいして「研究がないこと」を証明するのは確かに大変です。

しかし、「既にある資料」を材料にしてその解説・分析が不十分であることを示すことによって「その研究がないこと」を示唆することは可能だと思います。
そういう作業をすることをSakananomeさんに期待したいと思います。
(としか今は言えない。)

・一万歩譲って不十分かどうかの判断はひとまずおくとしても、
既に「資料があること」を示すことは、この掲示板のやりとりを無駄にしない作業だと思います。
と、いうわけで感謝!



>  点さん、こんにちは。
>
>  冷静な うけこたえ、いつも参考になります。
>
> > 2 しかしながらSakananomeさんは、筑波の
> > 解説を評価しているようです。ここの筑波の
> > 説明は先行研究の「のだ」「んです」をもと
> > にしているのではないのでしょうか。つまり
> > 「上手に説明できる」だけの分析なり解説が
> > すでにあることを示唆しているのではないで
> > しょうか。 
>
>  これについて、わたしはNo.419(
>http://nihongo-online.jp/tree02/treebbs.cgi?kako=1&log=419
> )で解説をしました。
>
>  あのときは あえて かきませんでしたが、わたしが かいたことは、ソウルで ひらかれている「在韓日本語教師研究会」での発表で『S.F.J』の作成に たずさわった かたから直接 うかがったことです。そのときの発表の記録も のこっています。
>
>  もちろん、観察の するどい教師なら、そんな機会がなくても、教科書のイラストをみれば、その意図するところは わかると おもいます。しかし、そう おもって わたしが紹介したことが、わたし ひとりの かってな解釈だと おもわれるのは たいへん心外なので、こんな いわずもがなのことも かかなければいけなくなりました。
>
>  ここは自由な掲示板なのですから、どんな意見も かきこむのは かまわないと おもいます。しかし、論文・資料・調査・講演、などなど さまざまな日本語教師としての勉強や体験をもとに かきこんでいることに対して、その意見に賛成でないからといって、もとの論文・資料・調査・講演などの存在までも否定したり、矮小化したり するようなことは モラルに反する言動だと おもいます。
>  自分の意見に反する研究が あることをみとめたうえで、あえて少数派の主張をするのなら、別に かまいません。あとは読者が判断できますから。しかし、具体的に提示された文献の ひとつにでも あたってみて それに則して批判するでもなく、「それは この主題での研究ではない」などと“ウソ”をいっていることを放置は できないのです。
>
>  わたしが このことに こだわる理由は、もうひとつ あります。わたしが経験してきた日本語教育の現場では、えてして この種の“ウソ”でも とおしてしまう人物がボス的な存在に なっていたと いうことです。そういう教師がいても、それをおさえられる役わりの ひとが まわりにいれば まだ いいのですが、そうでないと、最悪のばあい、ほかの教師はウソと わかっていても それを学習者に おしえさせられることになります。
>  日本語を専攻してきた経験のない新人教師は、授業はへたでも、語学的な分析能力はベテラン教師に まさっていることが あります。それなのに、その長所の部分まで このようなボス的な教師によって おさえこまれるのをみるのは いたたまれないものが あります。
>
>  せめて掲示板では そのようなことをなくしていきたいと おもうのです。

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633● Re: あること−ないこと[ きんちょ ] 01/06/25(Mon) 08:26
> しかし、「既にある資料」を材料にしてその
> 解説・分析が不十分であることを示すことに
> よって「その研究がないこと」を示唆するこ
> とは可能だと思います。
> そういう作業をすることをSakananomeさんに
> 期待したいと思います。
> (としか今は言えない。)

 わたしの ことばでは、それは「研究があることをみとめたうえで、それが不十分であることを指摘する」ことです。それだったら、どんどん やっていただきたいと おもいます。というか、大歓迎です。

 また、もし「自分のめざす方向での先行研究がない」と いうことだけをいうのなら、別に そんなに めくじらをたてるようなことじゃないとも おもいます。また、ふつうは、それでも、最初に自分の方法論をあきらかにして、同様の方法での先行研究が みあたらなければ、「ない」とか「すくない」とか いうまえに どれだけ さがしてみたか はなしたうえで、ほかの ひとにも さがしてもらえないかと情報をもとめるものですけれどもね。しかし、まあ、この程度なら、きっと よっぽど めくばりをして勉強されている かたなので、自信をもって「ない」と いえるのだろうと おもうだけです。

 わたしが 問題だと おもうのは、うえの どちらでもありません。

 自分の興味にあわない研究を研究として みとめないかのような いいかたをくりかえして、訂正も きちんと できないことなんです。
はっきりと「『んです』の研究は たくさんある。でも、その おおくは、方法論に問題があると おもう」と 主張するのであれば、なんの問題も ありません。それが ただしいかどうかは別にしても。



> ・一万歩譲って不十分かどうかの判断は
> ひとまずおくとしても、
> 既に「資料があること」を示すことは、
> この掲示板のやりとりを無駄にしない
> 作業だと思います。
> と、いうわけで感謝!

 ふつうだったら、その資料の ありかと題目だけ あげれば、検討をしてから批判するなり、検討をするまでは 判断を保留するものだと おもいます。こうして その資料の内容まで しめさないと、研究が「ある」んだということも みとめてもらえないのだとすれば、ゆゆしきことだと おもいます。内容まで しめしても、みとめないのだとすれば、論外です。そういう意味では、けっして よろこんで していることでは ありません。

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524● 引用の事実関係について[ きんちょ ] 01/06/09(Sat) 14:20
 Sakananomeさんの指摘のなかで、以下の部分は引用の事実関係に かかわるものですので、説明させていただきます。

----[きんちょの投稿(495)のなかでの紹介]------------------------

● 久野ワ 『新日本文法研究』1983
 以下のような記述があるそうです。(いまのところ、『モダリティの文法』益岡 からの マゴびきです。すみません)
 日本語の否定辞「ナイ」と疑問助詞「カ」のスコープは
 極めて狭く、通常、その直前の動詞、形容詞、「Xダ/
 デス」に限られる (P.140)
この原則により、
 (5) 君はパリで時計を買いましたか。
 (6) *君はこの時計をパリで買いましたか。
 (7) 僕は終戦の年にはまだ生まれていなかった。
 (8)??僕は終戦の年には生まれなかった。
を説明し、(6)が非文なのは、焦点であるべき「パリで」が疑問の「カ」のスコープに おさまらないからで、(8)が非文なのは、焦点であるべき「終戦の年に」が否定の「ナイ」のスコープに おさまらないのに対して、(5)(7)の焦点は「買いました」「生まれている」だから、それぞれ「カ」「ナイ」のスコープに おさまるのだと主張したそうです。

------------------------------------------------------

 これに対して、Sakananomeさん(504)から、以下のような指摘が ありました。

----[Sakananomeさん 504]-------------------------------

このように益岡には書かれているのですが、
(6)はどう考えても非文ではないと思います。
原本をあたってもこのような例文はのっていません。

-------------------------------------------------------

 ここでは非文かどうかの議論には たちいらず、引用の事実関係のみ説明します。


1. わたしが「マゴびき」だと ことわって紹介したのは、上記のとおり『モダリティの文法』(益岡 隆志 1991 くろしお出版)の63頁に ある記述の一部です。例文も そのまま うつしました。


2. ただし、『モダリティの文法』の63頁には、うえの例文の直前に、以下のような記述があります。

  この問題を検討する前に、久野(1983)の
  論点を見ておこう。久野は、(5)と(6)、
  (7)と(8)等に見られる文法性のちがいに
  着目する。

そして、この末尾(「着目する」の右肩)に注が付されています。その注記を以下に引用します。

  以下の(5)〜(10)の例は、久野(1983)で
  挙げられている例に最小限の手直しを
  加えたものである。なお、疑問助詞「か」
  を含む文は、丁寧体の文の方が自然で
  あるので、ここでは、疑問文の例は丁寧
  体のものを用いることにする。


3. 久野ワの『新日本文法研究』(1983 大修館書店)にも あたることができたので、原本にしたがって、確認したことを追加しておきます。

 『新日本文法研究』の137頁に、以下の例文が あります。表記法をふくめて直前から原文のまま引用します。ただし、原文では、太字になっている部分があるので、その太字の部分を《 》にいれて表示します。
 
|
|  先ず、次の例を参照されたい。 
|
|   (59) a. *君ハ《1930年ニ》生マレタカ。
|      b. *君ハ《東京デ》生マレタカ。   
|      c. *君ハコノ時計ヲ《パリデ》買ッタカ。
|      d. *君ハコノ写真ヲ《パリデ》撮ッタカ。
|
| 上例は、全て、動詞以外の要素が、「穴埋め式」焦点と
| なっているものである。これらの文の不適格性これらの
| 文の不適格性は、次の疑問文の適格性と、面白い対象を
| なす。
|
|   (60) a. 君ハ1930年ニハモウ《生マレテイタ》カ。
|      b. 君ハパリデ時計ヲ《買ッタ》カ。
|      c. 君ハパリデ写真ヲ《撮ッタ》カ。
|      d. 君ハスシガ《食ベタイ》カ。
|      e. 君ハ今カラ直グ《出カケラレル》カ。
|


また、125頁に以下のとおりの記述があります。うえと同様に、太字の部分は《 》で くくって引用します。

|
| 次の対比を観察されたい。質問の焦点と解釈する
| ことを要求する要素を太字で示す。
|
|   (16) A. 君ハ《終戦ノ年ニ》生マレタノカ。
|      B.*ウン,φ,生マレタ。
|   (17) A. 君ハ終戦の年ニハ《モウ生マレテ》イタカ。
|      B. ウン,φ,モウ生マレテイタ。
|


 それでは。

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