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スレッド

└◇601:
活用のちがいは、意味や機能の ちがいではない [きんちょ] 01/06/21(Thu) 13:25

 └◇614:Re: 活用のちがいは、意味や機能の ちがいではない Sakananome 01/06/23(Sat)
  └◇616:共通要素を抽出することからの「出発」 きんちょ 01/06/23(Sat)
   └◇618:学校文法での あつかいについて ひとこと きんちょ 01/06/23(Sat)
    └◇619:辞書でも「助動詞」 きんちょ 01/06/23(Sat)


601● 活用のちがいは、意味や機能の ちがいではない[ きんちょ ] 01/06/21(Thu) 13:25
● つぎの部分は、いままでのSakananomeさんの主張には なかった部分ですね。最初から そういう主張だったとは おもえないのですが、この際、そんなことは かまわないのであって、これをちゃんと みとめてくださることのほうが 大切です。


----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>
   ↓
・「のだ」は「のです」「んです」(以下「のです」と「んです」はほぼ同じとし、「んです」に代表させる)に置き換えることができると思います。「のだ」から見た「んです」は同じ物です。でも「んです」のかなりの部分は「のだ」に置き換えることはできないと思います。「のだ」にくらべて「んです」ははるかに多くの働きをもっているからです。「んです」から見れば「のだ」は同じとは言えないと思います。
              ↑
<<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----


これは、

 「んです」のカバーする範囲=「のだ」のカバーする範囲+α

ということを いっていらっしゃるのだと おもいます。ですから、この「α」の部分については、「のだ」の研究でもって「んです」の分析の代用は できないけれども、「α」以外の部分は代用できるということじゃありませんか?

 


● 語学の研究というのは用例採取が基礎になりますから、「カバーする範囲」については かなり客観的な議論が できます。論文になって あらわれているのは、採取された用例をもとにした分析の部分が おもで、基礎になっている用例じたいは すべて あらわれてくるわけでは ありません。しかし これは、「カバーする範囲」について いいかげんに とりあつかっているということではなくて、そこには 議論の前提としての共通認識があるものと かんがえられるから、あえて くわしくは ふれていないのです。

 「んです」と「のだ」がカバーする範囲の こまかい ちがいについては、わたしが(No.528)で説明したような指摘が されており、これについては おおきな見解の ちがいがないので、「のだ(のです、んです、)」の分析においても それが議論の前提になっていると いえるでしょう。

 つまり、うえに わたしが かいた「α」の部分について しったうえで、「α」以外の共通部分をつらぬいている性質は なんなのかということを「のだ」の研究と いわれるものの大部分が とりあつかっているのです。




● これだけ説明すれば、「のだ」(に代表される変異体)の研究が「んです」の研究でもあるのだということは簡単に納得できると わたしなんか おもうのですが、それでも「α」の部分に こだわるのであれば、なにが「α」なのかということを明示することが必要だと おもいます。




● たとえば、

  「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても
  「どこに行くのだか」とは言えない

と いうことが、この「α」に かかわることなのかと いえば、それは ちがいます。「んです」も「のだ」も活用する単位なのであって、その活用のしかたが、おなじではないと いうことです。

 これは、

  「うみに いくだろう」と いえても、
  「うみに いきますだろう」とは いえない

という事実をもって、「いく」と「いきます」は ちがうと主張するようなもので、とりたてて「んです」と「のだ」の活用の しかた以上の ちがいを説明したことには ならないのです。ここに かかれたこと自体は、単に「のです/んです」の疑問形は「のですか/んですか」だけれども、「のだ/んだ」の疑問形は「のか/の↑」であるという了解が ひとこと あれば解決することでしょう。そして、この「了解」は、一例をあげれば「きれいです」と「きれいだ」についての同様の「了解」と おなじ類型をしめしているのですから、なにも非合理なところは ありません。

 つまり、このようなことをいくら ならべても、それは、「のだ」の研究をしている ひとたちは とっくに おりこみずみであって、その研究が「んです」の おおきな部分に適用できるということに対する反証には なりません。
(たとえば、野田春美さんの著作に『「の(だ)」の機能』という本が ありますが、このタイトルに「の(だ)」という かきかたが されていること自体が、ここでSakananomeさんが指摘したことをふまえたうえで、「のだ」「のです」「んだ」「んです」「の」などの形態で実現される表現の「共通」の部分をとりだして分析しているのだと いうことをしめすための工夫だということが わかると おもいます。ちなみに、野田さんは、「のだ」と同等に あつかえる「の」と、そうでない「の」についても論考をだしています。それだけの てつづきをはぶかずに研究しているのです[(No.528)参照]。それでも Sakananomeさんは、あいかわらず、「のだ」の研究は「んです」の研究ではないと主張するみたいですが。)




● ちなみに、うえの例は、みちで しっている ひとに あったときに、

  「どこに いくんですか」と たずねるのが自然で、
  「どこに いきますか」とは いいにくいという事実

と、その あいてが したしい ともだちだったときにでも、

  「どこに いくの」と たずねるのが自然で、
  「どこに いく?」とは いいにくいという事実

との あいだに同質の関係があるということをしめすのには好例です。

 つまり、この例ひとつをみても、Sakananomeさんの以下の疑問点には、一定の解答が でているということです。


----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>
   ↓
1 「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても「どこに行くのだか」とは言えない。「どこに行くの」「どこに行くのか」が「のだ」に入るのかどうかはなんとも言えない。
              ↑
<<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----


「なんともいえない」のではなくて、うえのような例では、はっきりと「対応している」と いえるのです。

 そして、


----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>
   ↓
「のだ」の研究がかなりあってもそこから「んです」の意味働きを導きだすことはできないと思います。「んです」の分析は最初から「んです」として始めなければならないでしょう。
              ↑
<<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----


などと いうわけではないと いうことが、この例をみるだけでも、よく わかります。




● Sakananomeさんの たちばに たって、「α」の部分を擁護しようと おもえば、わたしが(No.528)で すこし ふれたことですが、ひとりごとのような内的言語では「のです」「のだ」の形式は あらわれないと いうような観察は有意差であるかもしれません。また、以前に かいたように、はなしことばでの「のだ」(と その変異体)の あらわれかたと、かきことばでの「のだ」(と その変異体)の あらわれかたには、たしかに ちがいが あります。

 しかし、これは より本質的には、音声言語と文字言語の ちがいなのではなく、ダイアローグとモノローグの ちがいなのではないかと おもいます。ダイアローグ(別に2人と かぎる必要は ないのですが)であれば、文字言語であっても、「問いかけ」「確認」「相づち」「驚き」などの用法が あらわれてくるでしょう。また、常体と敬体とでの あらわれかたの ちがいに ついても、さきほどの「どこへ いくんですか。/どこへ いくの?」のように、基本的には対応することが ほとんどだと いえるでしょう。これは、教科書にでてくる敬体の会話で「んです」が つかわれている部分を常体に なおしたときに「の」が必須であるか、すくなくとも自然であると感じられるものが ほとんどであること、反対に、「の↓」「んだ」が つかわれている常体の会話を敬体にしようとすると、「んです」が、「の↑」が つかわれている常体の会話を敬体にしようとすると、「んですか」が必須であるか、すくなくとも自然であると感じられるものが ほとんどであることから わかります。これについても、いままでの投稿で実証してきました。こうした方法で、より おおくのネイティブ・スピーカーをモニターにして調査していけば、はっきりすることだと おもいます。

akizuki.pr.co.kr/

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614● Re: 活用のちがいは、意味や機能の ちがいではない[ Sakananome ] 01/06/23(Sat) 02:37
きんちょさん、こんにちは。このところ忙しくて充分にレスできなくてすみません。

きんちょさんの「のだ」と「んです」は同じだと言う意見よくわかりました。でも私は両者は違うと考えています。きんちょさんは同じだと言う立場で、私は違うと言う立場でこれから「んです」を考えていけばよいのだと思います。もうこれ以上同じか違うかと言う議論は止めたいと思います。

以上のことを踏まえた上で、せっかくきんちょさんが大きな書き込みをしているので簡単なコメントをしたいと思います。

>
> ----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>    ↓
> ・「のだ」は「のです」「んです」(以下「のです」と「んです」はほぼ同じとし、「んです」に代表させる)に置き換えることができると思います。「のだ」から見た「んです」は同じ物です。でも「んです」のかなりの部分は「のだ」に置き換えることはできないと思います。「のだ」にくらべて「んです」ははるかに多くの働きをもっているからです。「んです」から見れば「のだ」は同じとは言えないと思います。               ↑
> <<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----

> これは、
>  「んです」のカバーする範囲=「のだ」のカバーする範囲+α
> ということを いっていらっしゃるのだと おもいます。ですから、この「α」の部分については、「のだ」の研究でもって「んです」の分析の代用は できないけれども、「α」以外の部分は代用できるということじゃありませんか?
>

はい代用できます。ただ代用できる部分にこだわると「んです」の本当の姿が見えないのでは、代用できない部分に「んです」の本当の姿があるのではないかというのが、私の考えです。

>>
> ● 語学の研究というのは用例採取が基礎になりますから、「カバーする範囲」については かなり客観的な議論が できます。論文になって あらわれているのは、採取された用例をもとにした分析の部分が おもで、基礎になっている用例じたいは すべて あらわれてくるわけでは ありません。しかし これは、「カバーする範囲」について いいかげんに とりあつかっているということではなくて、そこには 議論の前提としての共通認識があるものと かんがえられるから、あえて くわしくは ふれていないのです。
>

この部分ほとんど分かりません。特に「議論の前提としての共通認識がある」と言う部分はわかりません。こんなものがあれば苦労しません。

>
> ● これだけ説明すれば、「のだ」(に代表される変異体)の研究が「んです」の研究でもあるのだということは簡単に納得できると わたしなんか おもうのですが、それでも「α」の部分に こだわるのであれば、なにが「α」なのかということを明示することが必要だと おもいます。
>
わたしは「んです」と「のだ」を比べているのではありませんので、このようなことに興味ありません。これは「のだ」から出発しているきんちょさんの仕事でしょう。私が興味あるのは「んです」の働きです。
>

> ● たとえば、
>   「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても
>   「どこに行くのだか」とは言えない
> と いうことが、この「α」に かかわることなのかと いえば、それは ちがいます。「んです」も「のだ」も活用する単位なのであって、その活用のしかたが、おなじではないと いうことです。
>  これは、
>   「うみに いくだろう」と いえても、
>   「うみに いきますだろう」とは いえない>
> という事実をもって、「いく」と「いきます」は ちがうと主張するようなもので、とりたてて「んです」と「のだ」の活用の しかた以上の ちがいを説明したことには ならないのです。ここに かかれたこと自体は、単に「のです/んです」の疑問形は「のですか/んですか」だけれども、「のだ/んだ」の疑問形は「のか/の↑」であるという了解が ひとこと あれば解決することでしょう。そして、この「了解」は、一例をあげれば「きれいです」と「きれいだ」についての同様の「了解」と おなじ類型をしめしているのですから、なにも非合理なところは ありません。
>

これはきんちょさんの誤解でしょう。私のポイントは「のだ」には疑問形がないことです。これは「んです」と「のだ」の大きなちがいでしょう。
ただ、きんちょさんは「のだ」の疑問形として、「のか」あるいは「の」を考えているようですが(これは新しい主張ですね)、「のだ」は「んです」と同じだ、「の」と同じだ、「のである」と同じだと、どうして使い方に強い制約のある「のだ」にそれほどこだわるのですか。

>
> つまり、このようなことをいくら ならべても、それは、「のだ」の研究をしている ひとたちは とっくに おりこみずみであって、その研究が「んです」の おおきな部分に適用できるということに対する反証には なりません。
> (たとえば、野田春美さんの著作に『「の(だ)」の機能』という本が ありますが、このタイトルに「の(だ)」という かきかたが されていること自体が、ここでSakananomeさんが指摘したことをふまえたうえで、「のだ」「のです」「んだ」「んです」「の」などの形態で実現される表現の「共通」の部分をとりだして分析しているのだと いうことをしめすための工夫だということが わかると おもいます。ちなみに、野田さんは、「のだ」と同等に あつかえる「の」と、そうでない「の」についても論考をだしています。それだけの てつづきをはぶかずに研究しているのです[(No.528)参照]。それでも Sakananomeさんは、あいかわらず、「のだ」の研究は「んです」の研究ではないと主張するみたいですが。
> ● ちなみに、うえの例は、みちで しっている ひとに あったときに、
>   「どこに いくんですか」と たずねるのが自然で、
>   「どこに いきますか」とは いいにくいという事実
> と、その あいてが したしい ともだちだったときにでも、
>   「どこに いくの」と たずねるのが自然で、
>   「どこに いく?」とは いいにくいという事実
> との あいだに同質の関係があるということをしめすのには好例です。>
>  つまり、この例ひとつをみても、Sakananomeさんの以下の疑問点には、一定の解答が でているということです。
>
> ----Sakananomeさん(No.593)------------------>>>>    ↓
> 1 「どこに行くんですか(問いかけ)」と言えても「どこに行くのだか」とは言えない。「どこに行くの」「どこに行くのか」が「のだ」に入るのかどうかはなんとも言えない。               ↑
> <<<<-------------------Sakananomeさん(No.593)----
>
> 「なんともいえない」のではなくて、うえのような例では、はっきりと「対応している」と いえるのです。
>

「のだ」と「の」ははっきりと同じだと言う意見承りました。もしそうであればぜひ「のだ」の研究ではなく「の」の研究をして欲しいと思います。「のだ」は日本語教育には必ずしも必須のものではありませんが、「の」は必ず教えなければならないからです。

>
>  しかし、これは より本質的には、音声言語と文字言語の ちがいなのではなく、ダイアローグとモノローグの ちがいなのではないかと おもいます。ダイアローグ(別に2人と かぎる必要は ないのですが)であれば、文字言語であっても、「問いかけ」「確認」「相づち」「驚き」などの用法が あらわれてくるでしょう。また、常体と敬体とでの あらわれかたの ちがいに ついても、さきほどの「どこへ いくんですか。/どこへ いくの?」のように、基本的には対応することが ほとんどだと いえるでしょう。これは、教科書にでてくる敬体の会話で「んです」が つかわれている部分を常体に なおしたときに「の」が必須であるか、すくなくとも自然であると感じられるものが ほとんどであること、反対に、「の↓」「んだ」が つかわれている常体の会話を敬体にしようとすると、「んです」が、「の↑」が つかわれている常体の会話を敬体にしようとすると、「んですか」が必須であるか、すくなくとも自然であると感じられるものが ほとんどであることから わかります。これについても、いままでの投稿で実証してきました。こうした方法で、より おおくのネイティブ・スピーカーをモニターにして調査していけば、はっきりすることだと おもいます。
>

「の」と「んです」が対応する、同じだと言うことであれば、だいぶ話は違います。必ずしも反対ではありません。
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616● 共通要素を抽出することからの「出発」[ きんちょ ] 01/06/23(Sat) 09:50
> きんちょさん、こんにちは。このところ忙しくて
> 充分にレスできなくてすみません。

レスしなくても かまいませんが、議論をするために はっきりと質問したり、確認をもとめたりしているところについては なにも こたえずに、自分が なにか いいたくなったときだけ でてきて すきなことをいうのは、いただけませんね。


> きんちょさんの「のだ」と「んです」は同じだと
> 言う意見よくわかりました。でも私は両者は違う
> と考えています。きんちょさんは同じだと言う立
> 場で、私は違うと言う立場でこれから「んです」
> を考えていけばよいのだと思います。もうこれ以
> 上同じか違うかと言う議論は止めたいと思います。

そうじゃないでしょう。あなたが、「んです」の研究は すくないと いったから、「それはちがう」と かいているのです。Sakananomeさんが するべきことは、

 ・「んです」の研究は すくない

と いったことを訂正して、

 ・Sakananomeの「立場」に たった「んです」の研究は すくない

と いいなおすことです。


> はい代用できます。ただ代用できる部分に
> こだわると「んです」の本当の姿が見えな
> いのでは、代用できない部分に「んです」
> の本当の姿があるのではないかというのが、
> 私の考えです。

 「本当の姿」って、なんですか? 「本質」みたいなことをいっているのでしょうか? 

 それは それでSakananomeさんの問題意識として理解できますが、自分が注目しているところが「ほんとう」で、ほかの部分に注目していると「こだわる」というような いいかたをするのは、どうもなあ。

 わたしは、「んです」の「本質」が なにかというようなことは とりあえず議論しなくてもいいと おもっています。この掲示板での「んです」の議論は、つぎの かおりんさんの(No.378)から はじまっています。

----かおりん さん(No.378)---->>>>
例えば「食べませんか」とお菓子を初めて勧めるときに「食べないんですか」というのは明らかに間違いですが,これは相手に不必要な説明を求めているから無礼な印象を与えていると考えてよいのでしょうか。また,「これは田中さんのですか」「ええ,そうです」で済むところで「そうなんです」というのも,ないところで関連性を暗示しているため無用の混乱を招いていると考えて良いのでしょうか。
<<<<----かおりん さん(No.378)----

ここでの問題を説明するうえで、これが「代用できる」部分の問題なのか、「α」部分の問題なのか、ということなんですね。「本質」かどうかは関係ありません。具体的に生じている問題について、どう対処するかということが大切だと おもうんです。
 で、Sakananomeさん以外のひとは、はじめから「代用できる」部分の問題として あつかって、この疑問をといていこうとした。Sakananomeさんは、そもそも かおりん さんの問題意識を共有しない たちば(ここでの「食べないんですか」「そうなんです」に問題があるということ自体、どうも みとめていないらしいということが あとで わかった)から、「んです」は「文法の問題ではなく「スタイル」の問題」「基本的な働きを説明して、あとは自由に使いなさいとするのが良い」と いったんでしょう? 最初の問題意識を共有できないのですから、「本当の姿」だと いわれても、もとめる こたえには とおいな、というのが すなおな感想です。

> この部分ほとんど分かりません。特に
> 「議論の前提としての共通認識がある」
> と言う部分はわかりません。こんなも
> のがあれば苦労しません。

いやいや、「α」の部分があるということくらい、みんな しっているんだよ、ということです。これを しっていても、苦労は します。これは ただの出発するまえの準備作業なんですから。Sakananomeさんは、出発もしないで、そのまえの準備が よくないといいながら はなしをむしかえしているんですよ。(しかも、とりたてて あたらしい発見が あるわけでもない。)


> わたしは「んです」と「のだ」を比べている
> のではありませんので、このようなことに
> 興味ありません。これは「のだ」から出発
> しているきんちょさんの仕事でしょう。私が
> 興味あるのは「んです」の働きです。

あなたが興味がないとしても、ひとの しごとにケチをつけるようなことをいうのは、いけませんね。もういちど かきますが、だったら、

 ・「んです」の研究は すくない

と いったことを訂正して、

 ・Sakananomeの「興味」に あった「んです」の研究は すくない

と いいなおすことです。




 ところで、わたしはSakananomeさんの理解しているような意味で「のだ」から出発しているのでは ありませんよ。「のだ」「んだ」「の」「のです」「んです」の共通要素を抽出することから出発しています。Sakananomeさん以外の かきこみも そうだし、ここで とりあげられた先行研究も すべてそうです。「のだ」の研究と いわれているものは、実は「んです」の かたちで あらわれる例文をたくさん採集して、「んです」をあつかっているのだということは、さんざん いいましたよね。


> これはきんちょさんの誤解でしょう。
> 私のポイントは「のだ」には疑問形が
> ないことです。これは「んです」と
> 「のだ」の大きなちがいでしょう。

誤解していませんよ。そのSakananomeさんの認識が、「活用」ということを理解していない認識だと指摘したのです。


> ただ、きんちょさんは「のだ」の疑問形と
> して、「のか」あるいは「の」を考えてい
> るようですが(これは新しい主張ですね)、
> 「のだ」は「んです」と同じだ、「の」と
> 同じだ、「のである」と同じだと、どうし
> て使い方に強い制約のある「のだ」にそれ
> ほどこだわるのですか。

 あのう、…「あたらしい主張」なのではなくててすね、わるいけど、そんなこと日本語教師だったら「常識」に属することじゃありませんか? 

 「元気ですか?」を普通体(常体、基本体)で表現すると どうなりますか? 「*元気だか?」とは いわないでしょう? 「元気↑」とか、「元気か?」「元気かい?」と ききますよね。

 「使い方に強い制約のある「のだ」にそれほどこだわるのですか」と おっしゃるけれども、「使い方に強い制約がある」のは、Sakananomeさんが「〜のだ」の疑問形をつくれなかったからじゃないですか。「元気だ」の疑問形を「元気↑」とか、「元気か?」「元気かい?」と つくれる ひとだったら、「いくのだ」「結婚していたのだ」「そうなのだ」の疑問形を「いくの↑/いくのか?/いくのかい?」「結婚していたの↑/いたのか?/いたのかい?」「そうなの↑/そうなのか?/そうなのかい?」と つくるのが あたりまえでしょう? そして、そのように つくれば、「といかけ」も「確認」も「おどろき」も「あいづち」も あらわすことができるのに、この あたりまえのことをせずに、「*のだか」などという ありもしない形式をつくりだして「のだ」は「んです」と ちがうなどと主張するほうが、よっぽど ご自分の主張に「こだわって」いるとしか みられません。


> 「のだ」と「の」ははっきりと同じだと
> 言う意見承りました。もしそうであれば
> ぜひ「のだ」の研究ではなく「の」の研
> 究をして欲しいと思います。「のだ」は
> 日本語教育には必ずしも必須のものでは
> ありませんが、「の」は必ず教えなけれ
> ばならないからです。

 全然、理解していませんね。せっかく「の(だ)」という書名につかわれた表記の意味を説明したのに。

 いいですか? Sakananomeさんは、「のむ」の語彙的な意味を「たべる」と くらべるときに、「のむ↑」「のむ↓」「のむよ」「のむさ」「のみます」「のんで」「のんだ」「のまない」「のんでください」「のんではいけません」「のまなければなりません」の なかにある「のむ」の意味を、それぞれ別のものとして あつかいますか? 

 *「のみます」は丁寧さをあらわすから、「のむ」とは別のものだ

と主張しますか?  

 はっきりいって、Sakananomeさん以外の投稿も研究も、「のだ」「んです」を「おなじもの」として あつかうと いっているときに、その共通部分をあつかっているのです。それを「の」と表現するのなら、その「の」を研究しているのです。「の」といっても、連体助詞の「の」じゃなくて、「のだ」「のです」「んだ」「んです」などから「だ」や「です」の文体にかかわる成分をぬきとったときに あらわれる「の」や「ん」に あたる部分をあつかっているのです。それを理解していないのは、Sakananomeさんのほうです。


> 「の」と「んです」が対応する、同じだと
> 言うことであれば、だいぶ話は違います。
> 必ずしも反対ではありません。

 やっと ご理解いただけたようで、ありがとうございます。



 わたしたちが言語を分析するときに、なにが「おなじ」成分で、なにが「ちがう」成分なのかということは、結局は、その分析の目的にてらして、どのように あつかえば説明したり整理したりするのに便利か、ということによって きまります。「のむ」という動詞について「のま(ない)」「のめ」「のみ(ます)」「のんで」「のんだ」などを別語とは しないのも、これが規則的に変化していて、その規則的な変化に応じて、はたらきも規則的に かわってくることが観察できるからでしょう。
 「のむ」のように語彙的な意味が はっきりしていれば、だれも そのことで まよったりは しません。ただ、「のだ」については、「の」と かいただけでは文末でモダリティーをあらわす形式であることが わかりにくく、「だ」「です」と むすびついたときに独特の機能を発揮するので、「の」「ん」などとは かきにくくて「のだ」と かかれているだけです。日本語教育では、「みたい」「よう」「そう」などというのも、「みたいだ」「ようだ」「そうだ」というように表現されることが おおいわけですが、これをもって「みたいだ」は「みたいです」と ちがうと かんがえる ひとが いないのと、おなじことです。
 もちろん、「だ」や「です」の つかいかたを べつべつに説明することが あるように、「のだ」や「んです」の つかいかたを別々に説明することが あっても かまいません。しかし、最初の かおりんさんの問題提起を解決するためには、そのような説明方法よりも、「のだ」「のです」「んだ」「んです」「の」などの共通部分をとりだしたものである「の/ん(だ/です)」とでも表記する以外に しめしようのない要素の一般的な性格をもとに議論したほうが わかりやすいと おもいます。あくまで、かおりんさんが「問題だ」と おもったことをおなじように「問題だ」と おもったうえで いえることですけれども。

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618● 学校文法での あつかいについて ひとこと[ きんちょ ] 01/06/23(Sat) 12:17
 さきほどの投稿で、以下の部分なんですが、よく かんがえたら、学校文法でも「よう」「そう」「みたい」は「ようだ」「そうだ」「みたいだ」までで一単語ですね。さらに、辞書の みだしにしても、いわゆる形容動詞は「だ」をとった かたちが みだしになるけれども、これらは「助動詞」であるということで、「だ」をふくめて みだしに たてられています。

> 「のだ」については、「の」と かいただけ
> では文末でモダリティーをあらわす形式で
> あることが わかりにくく、「だ」「です」
> と むすびついたときに独特の機能を発揮す
> るので、「の」「ん」などとは かきにくく
> て「のだ」と かかれているだけです。日本
> 語教育では、「みたい」「よう」「そう」
> などというのも、「みたいだ」「ようだ」
> 「そうだ」というように表現されることが
> おおいわけですが、これをもって「みたい
> だ」は「みたいです」と ちがうと かんが
> える ひとが いないのと、おなじことです。


それでは、「みたいだ」で1単語だと、「みたいです」は どうなるのかという疑問が でてきます。学校文法では、「です」は1語の助動詞で、この ばあいには、「語幹につく」と説明されるわけです。「きれいです」も「きれいだ」という形容動詞の語幹「きれい」に、助動詞「です」が つくことに なっているはずです。

日本語教育文法では、こういう わかりにくさを排して、「きれい」「みたい」を原形として、それが普通体の現在肯定になるときには「だ」をつけ、丁寧体の現在肯定になるときには「です」をつけると おしえるのではないでしょうか。(さらにいうと、日本語教育文法では、このときの「だ」「です」は助動詞ではなく、「きれい」「みたい」の活用語尾として あつかうのが ふつうだと おもいます。)

このような日本語教育文法の体系のなかでは、「のだ(=んだ)」も「みたいだ」と同様に、「の(=ん)」「みたい」を原形とする助動詞だというふうに説明するほうが一貫するのではないでしょうか。実際、寺村秀夫氏は、「ムードの助動詞」と よんでいます。「の」には、連体助詞や代名助詞のような つかいかたが あって、さらに準体助詞としても「んです」とは異質なものが あります。ですから、「のだ(=んだ)」の形式をとっていても「ムードの助動詞」と いえる部分と そうでない部分の境界は むずかしいところが あるかもしれません。ただ、わたしの意見としては、実際上、「んだ」の形式と、「んだ」に かきかえられる形式を「ムードの助動詞」として みるという定義でも じゅうぶんではないかと おもいます。

 まさに、「のだ」が「んだ」に、「のです」が「んです」に かきかえられる領域が、「説明」とか「関連づけ」とか「結束性」に かかわる独特な用法をもたらす部分だと おもいます。反対にいえば、このような独特な部分をとりだして、記述しようとするのなら、それは「の」と「ん」が交換可能なものとして とりださなければならず、もし交換不可能なら、それこそ 交換できない部分のみを別語として とりあげるべきではないでしょうか。

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619● 辞書でも「助動詞」[ きんちょ ] 01/06/23(Sat) 15:52
 ふと『集英社 国語辞典』(第2版)をみたら、「のだ」が助動詞として みだしにたっていました。巻末の活用表にも、「だ」の となりに のっています。

 活用表での記述は、「反省的な指定」(ちなみに「だ」は「指定」)というのが「主な意味」で、「のだろ・のだっ・ので・のだ・のなら」と活用し、「接続」は「連体」と なっています。

 みだしとしては、「んだ」が
   んだ 〔助〕⇒ のだ〔助動〕

とあり、「のだ」に ついては、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 のだ
 〔助動〕[動詞・形容詞・形容動詞の連体形、動詞型・
  形容詞型・形容動詞型助動詞の連体形、特殊型助動詞の
  「た」「ぬ(ん)」の連体形に接続する。未然・連用・
  終止の三形があるが、未然形は「のだろう」、連用形は
  「のである」「ので(は)ない」の形のみ、すなわち終止
  用法にのみ用いられる]

 1.反省的、関係的な判断を表す。丁寧体として「のです」
  「のでございます」、文章体としての「のである」がある。
  終助詞「さ」「よ」「ね」が「だ」を代行して、「のさ」、
  女性語として「のよ」「のね」の形も用いられ、「の」の
  転じた「んだ」「んです」の形もある。疑問形は「のか」
  「のですか」のように、通常体と丁寧体が整合しない。

  ア.反省的に説明づける関係を表す。説明されるべき一つの
   事柄を主語とし、あるいはその前文にもち、それに対して
   述語となる形をとる。「波が白く光るのは曇った海の悲し
   みなのです」「夜更けの海を独り見る。遠い思いを流す−」

  イ.事柄の確実さを強調し、また、人にそれを確言する。
   「かわいわかいとなくんだよ」「冷たい心じゃないんだよ」
   「あなたひとりが欲しいのよ」

  ウ.一つの事柄の、行為を主張する。対自的には決意、対他
   的には命令を意味する。「ぼくは生きるぞ、生きるんだ」
   「きっと帰ってくるんだとお岩木山で手を振れば」

 2.未然形に推量の助動詞「う」の下接した「のだろう」「
  のでしょう」は、疑問の昇調イントネーションを伴って用
  いられたとき、相手に確認を求める意を構成する。「来る
  のだろう?」


 ◇準体助詞「の」に指定の助動詞「だ」の下接したものが
 終止法形式にあって独自に固定したもの。助詞相当としての
 「ので」「のに」は、準体助詞「の」に指定の助動詞「だ」
 の二つの連用形「で」「に」が接し、それが接続関係を示す
 形式として固定したもので、従ってこの助動詞相当「のだ」
 とは間接的な連続がたどられる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

と かかれています。

 最近の辞書は、すすんでいるんですね。

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