ことばや教え方の質問箱−掲示板2−

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No.7692  Re[2]:カタカナ(語)教育のアンケート
発言者: mint
発言日: 2004 09/11 08:28
> 1 日本にとってひらがな,漢字と比べ,カタカナにたいした認識
> 3 授業でカタカナ47音を体系的に教えているのか。
> 4 カタカナを教えてるとしたらどのように学習させているのか。
> 5 カタカナを教えるに適切な時期は?(学生のどのレベルでおしえるか)

このへんは文字としての カタカナのことを質問されているのではないかと おもいます。しかし、




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そうですね。私もカタカナとカタカナ語との差、それらのどっちに中心的なポイントをおくのか最初はいろいろ迷いました。
それはともあれ今にも自分が書いた問題をみたら曖昧なところが多いと思います。
選択項目を載せなかったのも問題の曖昧さをますます増やしたような気がします。




> 2 日本語の語彙でカタカナ語が何パーセントくらいだと思うのか。

> 9 日本の新聞,雑誌の中でカタカナ語のパーセントは?
> 10 日本語にとってカタカナが大事だと思う理由は?
> 13 現在使われている教科書の中のカタカナ語の割合について
   どう思うのか。
> 14 現在使われている教科書の中のカタカナ語は妥当性として
   問題ないと思うのか。
> 15 現在使われている教科書のカタカナ語はどう改善すべきなのか。

このへんは、文字としての「カタカナ」ではなく、「カタカナ語」についての質問ですよね。この2種類を混同しては いけないと おもいます。



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私はアンケートの問題をふたつに分類しました。
一つはカタカナ、カタカナ語に関した認識調査
二つ目は教育現場でのカタカナ、カタカナ語学習現況調査です。
それに、私の分類の中での問題の並び方もわるかったのではないかと思います。






わたしは、まず、mintさん ご自身が、「カタカナ」という文字をおしえるということと、「カタカナ語」をおしえるということとの区別が できていないのではないかと感じました。両者は まったく別のことです。


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私が最初に思ったのは高校の日本語教科書の中にカタカナ語がどのくらいの数でどのような配置されているのかそれから、どんなものが使われているのかを12種類の教科書を分析してその傾向をだすことでした。

カタカナ語ってどうせカタカナ文字の組合わせで、カタカナを知らないままでは習得(書いたり読んだり)できないと思ったからです。なので先生達のカタカナに対した認識、授業での扱いがカタカナ語に対した認識とつながっているのではないかと思ったからです。




極端にいえば、「カタカナ」という文字は、日本語の単語を ひとつも おしえなくても おしえることができます。わたしは 韓国語の単語を 10個くらいしか しらないときにハングルをおぼえましたし、英語の単語を 50も しらないときに ローマ字のアルファベットを おぼえました。(それぞれの文字の なまえをおぼえて、その 文字の なまえをきいて 大文字と小文字が かけるようになりました。)ロシア語を勉強したときも、まだ あいさつ以外のロシア語が まったく わからないときに ロシア文字のアルファベットをおぼえました。そして、すぐに勉強をやめてしまったので いまでも ロシア語は ひとつも しらないけれども 文字だけは なんとなく わかって、文字をみて すこし発音できたりします。ですから、「カタカナ」の文字を全部 おぼえることと、日本語の習得のなかで カタカナで かかれる ことばを習得するということとは まったく関係がありません。それは ちょうど、「ひらがな」を全部おぼえたからといって、ひらがなで かかれる ことばが 全部わかるということではないということと おなじです。日本語は ひらがなだけで すべて かくことが可能ですが、「ひらがな」を全部勉強した学生は、ひらがなだけで かかれた日本語なら なんでも よんで理解できるのでしょうか。

わたしが こどものころ、日本では ある英語教育の会社がテレビで「ABCは しってても、それだけじゃ こまります」という うたをうたって教材を宣伝していました。「『A』は『エィ』で、『B』は『ビィ』」と いうようなことをしっていても、それだけで よめる英語の単語は「I」だけでしょう。それも、単に よめるというだけで意味をしっているということとは ちがいます。「ひらがな」や「カタカナ」は さいわいなことに英語のアルファベットと ちがって、実際の文のなかでの よみと、文字の なまえの よみが一致しているから、文字をならうだけで 実際の文のなかで つかわれているものの発音のしかたが かなり わかるようになります。そういう意味では かなり「よめる」ようになりますが、ここで「よめる」といっているのは 発音してみることができるということであって、「よんで理解する」という意味では ありません。そして言語教育が目標にしていることは、「発音のしかたがわかる」ことではなく、それよりは「よんで理解する」ことのほうであるはずです。

このように、文字をおしえるということは ことばをおしえることとは 独立して おこなわれうることなのですが、一方、ことばをおしえることも 文字とは きりはなして おこなうことができます。たとえば、文字など つかわずに、すべて こえと みみだけで おこなう言語教育というものは ありえます。幼児を対象とした日本語教育では、カタカナどころか ひらがなすら つかう必要はないということも ありえるでしょう。盲人を対象とした外国語教育でも、文字よりも音を基本にしたものが 必要なのではないかと おもいます。だから、文字表記の教育というのは言語そのものの教育に付随する一部分でしかなくて、文字など教育しなくても言語の教育はできるということは 言語教育に たずさわる ひとなら常識ではありませんか。


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きんちょさんがおっしゃるとおりですね。
ただし、カタカナ語の多くは読めるだけで意味がわかることができる外来語が多いので文字教育も高校の学生達にすごく大事ではないかと思います。
というわけでカタカナ文字に対した各教科書の扱い方も必要性を感じて分析しようと思いました。



「カタカナ」という文字があって「カタカナ語」が あるのではありません。日本語のなかで ある種類の ことばが カタカナで かかれるから、それらをあとから「カタカナ語」と よんでいるだけで、そもそも日本語のなかで どんな ことばがカタカナで かかれるようになり、それらの あいだには どのような共通点があるのかという問題じたいも 厳密には研究対象になるくらい むずかしい問題です。一般的には外来語が カタカナで かかれることが おおいわけですが、日本語の教育のなかで 外来語と そうでない ことばとを わけて おしえるということは ほとんど不可能でしょう。外来語をいっさい つかわない日本語の会話とか文章は いまでは ほとんど存在しないし、反対に外来語だけからなる日本語の文というものは ありえません。どう かんがえても 実際の日本語をおしえようとすれば、外来語と そうでない語とは おなじ時期に並行して おしえることになるでしょう。そんなことは ちょっと かんがえれば あたりまえのことです。




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これはすばらしい意見だと思います。

韓国の今までのカタカナ関連の研究は英語に日本のカタカナがどう対応するのか、ハングルをカタカナでどう表記するかなどの文字表記中心だったと思います。

日本語はカタカナで表記するカタカナ語中心の新語が増えつつあっているに対して韓国の教科書に使われている語彙は昔からずっと和語、漢字中心に傾いてる状況はいいのか。
もちろんカタカナ語の定義自体は難しいと思います。
昔は新事物を表現するための借用というか新しいものを適切に伝える表現でしたが、最近は表現の便利さというか言葉のニュアンス、イメージをつくる(刺激的な意味を緩和させる(タン)とか商業主義の一貫(ブランド名など))手段として考えた使い方も増えたと思います。

日本語を母国語にする日本人は教科書のカタカナ文字教育、あるいはカタカナ語の比率が低くても認知できる機会が多いと思います。しかし韓国の日本語学習者はカタカナ語に接する機会少ないだけではなく学習者の自らカタカナの読み、書きの表記問題、カタカナ語の語彙習得に対した必要性をあまり感じていないと思います。
それに日本語教師のカタカナ語に対した指導の必要性を強調しないところにも問題があると思います。
韓国の高校生のほとんどはカタカナの読み、書きもできない状態で過程が終わってしまうのが現実です。
こんな高校での日本語教育方法をもっと体系的なカタカナ語(基本語彙に対した研究を含んで)の基準を立てて新しい語彙学習が行われなければいけないと思います。

韓国の高校生のニーズも漫画、雑誌、ゲーム、歌の歌詞などの読み中心日本語の方に変わっているそうです。
学習者のニーズによって教育も変わるべきだと思います。
日本での日常生活での基本語彙の指定とその基本語彙を元にした教科書の開発、それから学習者のニーズに対した教師の関心とカタカナ語彙指導が必要ではないかと思います。
というわけで現行高校日本語教科書にどのくらいのカタカナ語がどう学習されているのかそれに
対した問題点とその原因を分析して(各教科書に収録されているカタカナ語の語彙の頻度数、共通語彙、基本語彙(教育府指定の基本語彙の使用率)、カタカナで表記されている語彙の用例別の分類など)より効果的な教科書構成、指導法を模索したいと思います。





 たとえば、つぎのようなことをかんがえてみてください。

> 16 教科書の中にカタカナ学習のための別のページが
>   必要だと思うのか。必要だったらどのような構成が望まれるのか。

mintさんは なぜ、そういう質問をするまえに「教科書の中にひらがな学習のための別のページが必要だと思うのか」という質問をしないのですか。むしろ、mintさんが研究するべきなのは、

  なぜ韓国の日本語学習者や日本語教師の おおくは、「ひらがなの
  教育」というと 文字と文字の発音をおしえることしか かんがえ
  ないのに、「カタカナの教育」というと 「カタカナ語の教育」と
  混同してしまうのか

という自己省察であると おもいます。


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ひらがなも学習者にどう覚えさせるのが効果的なのかなど文字教育って大事だと思います。
研究で焦点をおきたいところはカタカナ語の教育というより教科書に使われているカタカナ語の分析してその傾向、特徴、問題などを探ることです。
それからカタカナは文字をおぼえるだけでもカタカナ語に対したその波及度(?)が非常に大きくなるので(カタカナ語の中で英語が90%以上)それから、上にも書きましたがカタカナ語の日本語での割合がどんどん増えているのに韓国ではいまだにその重要性の認識が低いと思ったからです。
ひらがなとはちがってカタカナがは文章の形にならないこともかたかな→カタカナ語につながる原因だと思います。




 20年ほど まえ、日本のNHKで テレビとラジオの韓国語の講座が つくられたとき、その講座のなまえを「韓国語講座」とするか「朝鮮語講座」とするかということで もめてしまい、講座が はじまるのが計画より数年 おくれてしまうということが ありました。結局のところ、講座のなまえは「ハングル講座」と なったのですが、そのとき、日本の おおくの語学専門家たちは「『ハングル』は文字の なまえであって言語の なまえではない」といって反対しました。わたしは いまでも そのとおりだと おもいます。もし、韓国のテレビの日本語講座が「ひらがな講座」とか「カタカナ講座」などという なまえになったら、絶対に抗議します。しかし、その後 わたしは韓国にきて日本語をおしえるようになりましたが、じきに当の韓国人たちは 「ハングル」と「韓国語」の概念を あまり きちんと区別していないようだということに 気がつきました。「韓国語は いつごろ できましたか」と質問すると「世宗大王が つくりました」と こたえる学生もいます。そして、「では、世宗大王よりもまえの韓国人は 韓国語をはなしませんでしたか」と質問すると、かんがえこんでしまう ひとも います。なかには「中国語をはなしていました」と いうようなことまで いう ひとも います。いま、韓国と中国とのあいだで高句麗の歴史問題が おきていますが、そんな歴史認識で だいじょうぶだろうかと わたしのほうが心配になってしまいます。どうも、韓国人の なかには、語学を専攻していても 文字と ことばそのものとの区別が できていない ひとが おおいようだと つくづく おもうわけです。NHKの おかげで、いまでは日本人も韓国語や朝鮮語のことを「ハングル語」などと いうようになりました。でも、この いいかたに違和感をもつ日本人も すくなくはないのです。ひょっとしたら 韓国人のほうが こういう違和感に対して鈍感なのかもしれませんが。でも、かんがえてみてください。ほんの100年まえのことをかんがえるだけでも、とても おおくのひとびとが 漢字はおろかハングルをしらずに韓国語をはなしていたはずです。日本だって、にたようなものです。文字をしらない おおくの ひとが いましたが、ちゃんと日本語をはなしていました。そして、そのなかには カタカナで かかれるべき ことばも ふくまれていたはずです。「カタカナ」をしらなくても、「カタカナ語」は しっていたし、つかえていたのです。最近は早期教育が さかんですが、それでも、日本にいる満1歳半くらいの こどもなら、カタカナは しらないでしょう。でも、「テレビ」が なにかは わかるはずです。


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この辺はいろんな意見があると思います。
ハングルを韓国語を表記する道具として文字だけに判断するかどうか。
ハングルがなかった時代の韓国語の韓国語の意味と現在のハングル=韓国語(韓国としては)の韓国語の概念をどう取るべきか。





日本語教育専攻の教育大学院に かよっていらっしゃるのなら、言語学習にとって、文字をおぼえるということと、その言語をおぼえるということとは まったく別のことだ、という 基礎中の基礎であることをまず はっきりと認識することが大切ではないでしょうか。それが わからないで、どんな研究をしても 全体として意味のないものになってしまいかねないと おもいます。

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カタカナ、カタカナ語の相関関係はカタカナ語の特徴を把握すれば答えになると思います。
カタカナが読めることでどのくらいのカタカナ語がわかるようになるのか考えてみました。
研究しようとおもっているのはある国の言葉と文字のことではなく韓国の高校日本語教科書に乗っているカタカナ語の分析です。
もちろん、その一部としてアンケートをするわけです。




たしかに韓国語話者からみれば、日本語における「カタカナ」のつかいかたは 特殊なものに うつる面が あるでしょう。それは理解できます。そして、その特殊性に応じた 教育のメニューが かんがえられるべきだという主張であれば、わたしも同意できます。たとえば、わたしは あるとき韓国でタクシーにのって バスターミナルに いってくれと いったのですが、そのタクシーの運転手は わたしの「ターミナル」の発音が おかしいと おもったのか、わたしに「日本人か」と きいたあと、「日本語で『ターミナル』は なんというのか」と たずねました。「ターミナル」と発音して こたえると、その運転手は「ああ、韓国語と にているね」と いいました。カタカナを常用する日本人であれば、「韓国語と にている」というのは まちがいではないが、それが もともと韓国語でも日本語でもなく 英語から きた ことばであるから にたものになるのだということが すぐに わかるでしょう。ですから、そのような感想は ばかげたものだと おもわれてしまうところです。しかし、みたところ その運転手は韓国語の「ターミナル」に あたる ことばが外来語だということに 気づいていないようでした。ハングルには 外来語であることをあらわす特別な表記法は ありません。だから、もしかしたら、「ターミナル」の発音が韓国語と日本語と にているのは、韓国語と日本語が きょうだいのような ことばだからだと いうふうな感想をもつことは、すこし英語の知識が たりないと おもわれることは あるにしても、ばかげた かんがえだと おもわれるようなことは ないのかもしれないと おもいました。このような表記の方法の ちがいに起因する意識の差が いろんなところに あらわれてくるかもしれません。そして、それが どういうところに あらわれてくるかをしらべるのは たいへん立派な研究であるだろうと おもいます。また、そういう意識の差が あるために、日本語の学習において どの語をカタカナで表記すべきかという点で まよってしまうということも おこりうることです。そういう問題が あるとしたら、それをどう解決するかというのは教育学の重要な研究になることでしょう。

また、一方で、日本語を常用している ひとは、カタカナをつかって表記することに なれているため、外来語と外国語の概念上の区別が しやすいというようなことも あるかもしれないと わたしは おもっています。日本語をおしえていると 韓国人の学習者からは きまって 日本語のなかに あらわれるカタカナで かかれた外来語について、「発音がおかしい」という感想が でてきますが、これは教師の日本語の発音が おかしいという意味ではないことは明白です。学習者は、その外来語が英語から きたものだとかんがえ、もとの英語の発音と くらべて カタカナ語の発音が おかしいと感じているわけです。このことは あちこちで指摘されていることなので わたしが ここで くどくどと説明する必要はないでしょうけれども、このような感想が でてくる前提として、日本語常用者にくらべて韓国語常用者においては 外来語を自分の ことばの文字で かきとったときに発音が あまり かわっていないという確信度が たかいという現象が あるのだろうと おもいます。自分で きちんと調査したわけではありませんが、経験的に そう おもいます。「ハングルは世界の どの言語の発音も かきとることができる」という主張は ときおり韓国で きくことがありますが、おなじことを ひらがなや カタカナについて主張する日本人は めったに みることがありません。そういうことから、日本語常用者のなかでは、カタカナ語と ほんらいの外来語とは概念としても 語としても区別されやすくなっていて、外来語をカタカナで かくということは、その外来語を もとからの日本語にある語と区別するのと同時に、もともとの外国語とも区別するための標識になっていると いえそうです。そのへんのことを理解することで、日本語におけるカタカナ語の表記は、外来語の ばあいも、日本語話者が ききとりやすく発音しやすいような おとに かえられて表記されるのだということが うけいれられやすくなるでしょう。実は、韓国語における外来語も もとの発音と くらべると 韓国語風に かえられているものが おおいのですが、そのことに韓国語話者が無自覚なことが おおいので、日本語だけが 奇異に うつってしまうということが まま あります。そういうことに気がつくことで、学習上の かべをひくくすることが できるかもしれません。これもまた、教育心理学上の重要な研究になるのではないかと おもいます。


しかし、これらの問題意識は、文字としての「カタカナ」の学習の問題と同列にあつかうようなことではありません。文字そのものの学習と混同するのは論外であると おもいます。学習者が このよう問題意識に ふれることは わるくはない かんがえでしょうし、そのためには まず文字としての「カタカナ」の習得が前提となるはずではありますが、それは単に必要条件であるということにすぎず、本質的ななかみにおいては まったく別のことであると いわざるをえません。



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本質的なことはむずかしいですね。
改めて申しますと研究においての私の問題認識は、高校日本語教科書の総語彙の中でどうしてカタカナ語が5パーセントあまりしか入っていないのかそれから、教育府指定基本カタカナ語彙の3分の1しか教科書に使われていないかの疑問からスタートしました。
だったら今の教科書にどんなカタカナ語をどのようにどんな配置で使っているのか調査したいと思いました。
それから実際教えている教師の認識がしりたくてアンケートするわけです。

このようなカタカナ語の立場というのはやはりカタカナ文字教育(教科書内の)との連関性があると思います。
(この辺は基本的にきんちょさんと認識が違うと思います。(カタカナ文字とカタカナ言葉に対した認識))
文字と言葉の研究が別々として成立することには同意しますが、だからといって私の研究にとってわたしが考えているカタカナ文字とカタカナ語の相関関係の意味はかわりません。






> 大体,こんな内容です。答えは主観式ではなく番号で
> 選ぶ形にしようと思っています。

韓国で「主観式」と いわれるものは、日本語では「記述式」と いうべきだと おもいます。日本語の感覚で「主観式」と いうと、論述試験のようなものをイメージしてしまいます。また、「番号で選ぶ形」のことは「選択式」といえば だいたい通じると おもいます。「客観式」と いってしまうと、日本語のなかでは 記述式でも正解が ひとつに きまってしまうようなものも ふくまれます。


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これも勉強になりました。やさしい説明ありがとうございます。
韓国では習慣的に昔からずっと主観式、客観式と言ってきました。
最近は敍述形、短答形、選択形などに言いかわっていますから良かったと思います。

もっと根本的に変わるべき、考えるべきのところもたくさんあると思います。
でも、私は教育現場での私なりの必要性を感じてこのテーマを選んでこんなやり方をしているわけです。
いくつか観点が違うとは思いますがすばらしいご意見、ほんとうにありがとうございます。
私がまだ未熟なのできんちょさんのおっしゃっていることが理解できず、まちがって書いたところもあると思います。

いろいろ勉強になりました。
きんちょさんのサイトも拝見させていただきました。
これからもよろしくお願い致します。

▼関連発言

7682:カタカナ(語)教育のアンケート mint 09/09
 └7683:Re:カタカナ(語)教育のアンケート きんちょ 09/09
  ├7691:--- --- 09/11
  └7692:Re[2]:カタカナ(語)教育のアンケート mint 09/11
   └7695:Re[3]:カタカナ(語)教育のアンケート きんちょ 09/11 ←last

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